貴方は、泡姫をご存知でしょうか。泡と消えたお姫様、人魚姫とも呼ばれている方でございます。

 これからお話するのは、彼女が泡となった、その後の物語でございます。

 貴方はご存知無いでしょう。泡となった姫の物語が、まだ終わってはいなかった事。




 まずは何を語るも、彼らの出会いをお話しなければなりません。それにしても、姫と我が国の王子が出会ったのは、何の悪戯だったのでしょう。天が、彼らを引き合わせてしまった、私《わたくし》には、そう思えてならないのです。とにもかくにも、彼らの物語は、ある嵐の日から始まりました。

 泡姫と出会う一月程前、王子を乗せた船は港を離れました。いつもは城にこもり切りの王子でしたが、その航海には、勉強の為同行したいと、自ら申し出たのでございます。王は、城に引きこもって世間を見ようとしない王子に呆れていた所でございましたので、その申し出を、快諾したのでございます。

 王子を乗せた調査船は、国を囲む海を二ヶ月に渡り周辺の海を調べながら航行し、国へと帰ってくる予定でおりました。けれど、ある日、海は荒れに荒れ、立派な帆船であったその船は浸水し始め、ついには沈没してしまったのです。その知らせを聞いた国の者達、もちろん私を含め、多くのものは、王子はもう亡くなっているのだと、一縷の望みすら抱けませんでした。私は王の後妻にあたり、王子の本当の母親ではございませんけれど、母君である前王妃は王子が生まれてすぐに亡くなられたので、ずっと、王子の事を私の本当の息子のように思って参りました。察して頂けますでしょうか。私のその時の心境を。知らせを聞いてからは、神々に祈りを捧げ、食べるのも忘れて世の儚さを憂う毎日でございました。

 けれど、丁度調査船沈没の知らせが国を駆け回った一月後、城に一人の青年が現れました。その青年を最初に見た門兵は、しばらく驚きで口も聞けなかったと聞いています。そう、その青年は、亡くなったとされていた我が国の王子、その人だったのです。




 王子は、私に何もかもを話して下さいました。王子の持ち帰った、七色の泡の入った小瓶の事も。

『海で溺れ、もう死ぬのだと言うとき、彼女は現れたのです』

 溺れかけていた王子は気づくと、岸に引き上げられていたと言います。そして目の前には、長い金の髪を濡らし、心配そうに自分を覗き込む、美しい少女がいたのです。少女は、王子に大丈夫かと問いかけ、王子が頷くと嬉しそうに微笑みました。それを見た瞬間に、王子は恋に落ちたと言います。

『船を探してきます』

 少女はそう言うと、長いスカートを引きずりながら、海の方へと向かいました。王子は止めました。そちらに行っても、海が続くばかりで、人里などあるはずもないと。けれど少女は王子の呼びかけに少し振り返って戸惑いながらも、にこりと笑って海の中へと消えてしまったのです。

 王子は起き上がり、彼女を追って海へと入りました。すると透き通った水の先、少女がスカートを取り払う姿が見えました。見ているのも悪いと、王子は目を背けようとしたようです。けれど、皮膚が続くはずの場所が現れると、そこには鱗のようなものが見えたのです。目を背けるのも忘れ、王子は少女を見つめ続けました。現れたのは、人間の足とは似ても似つかない、魚のしっぽだったのです。

 王子は、とても驚いたと言っておりました。けれど同時に、優雅に水中を泳ぐその姿に、感動したのだとも言っておりました。異形の者への風当たりは、いつの時代も酷いものです。けれど王子は、そんな事は気にならなかったようです。


 しばらくすると、少女が帰ってきました。大きくて美しい船の上に乗り、王子に手を振りながら。

 王子は、近くまで来た少女を見て、また驚いたと言います。少女には、先ほどまでは確かに無かった、足がついていたのです。



『私は、少女の乗って来た船が、どこから来たのかも、どこの誰のものであったのかも何も知りませんでした。そして、彼女の名前すら、知らないままの長い旅が始まったのです』

 王子が何を聞いても、少女はにこりと笑うだけで、口をきこうとしませんでした。そのうちに王子は気がつきました。少女は口をきかないのではなく、きけないのではないかと。王子が少女の声を聞いたのは、少女が船を取りに行くまでの間だけでした。



 二人の旅は、不思議なものになりました。王子は、自分がどこにいるのかもわかりませんでしたから、舵を取れるわけもありませんでした。けれど船は、まるで自分の目的地がわかっているかのように、一人でに海を進んだと言います。

『彼女は、いつも笑っていました。けれど、私が側まで行こうとすると、少し困ったように離れてしまうのです。私は、私が嫌いなのかと聞きました。すると彼女は、驚いたように目を瞬かせると、ぶんぶんと首を振ったのです。私は、では好きかと聞きました。けれど彼女は、困ったように微笑むだけでした』

 王子の乗った調査船が沈没してから、一月が経とうという頃、王子は海の向こうに、大陸を見つけました。長い航海を終え、故郷の海へと帰って来た事を知った王子は、喜んで少女の元へ報告に行きました。けれど少女は、その知らせに、喜ぶどころか悲し気に目を伏せたのです。

 王子は、美しい少女にすっかり心を奪われておりましたので、少女を城へ招くつもりでした。けれどその誘いにも、少女は悲し気に首を振るばかりだったのです。

『どうしてですか。私は、貴方が人間ではなくてもいいのです』

 王子は、少女が拒む理由を図りかねておりました。けれどそう言った途端、少女が顔を上げたのです。少女の口が開き、何かを告げようと動きました。けれど、少女の声は出なかったのです。少女は自分の喉を抑え、涙を流しました。そして、王子から離れ、船の先へとかけたのです。

『私は、彼女を追いかけました。彼女は船の縁に登り、今にも飛び降りてしまいそうでした。暗い海に落ちても、きっと彼女なら泳げるのだろうと、私は思いました。けれど、彼女の様子から、何かがおかしいと思ったのです』

 王子は、少女を引き止めようと手を伸ばしました。そして、少女の腕を掴み、自分の方へと引き寄せたその時、少女は消えてしまったのです。

『何が起こったのか、わかりませんでした。彼女がいた場所には、七色の泡が残されているだけでした』

 王子は、その泡が少女だったのではと考えました。そしてその泡を丁寧に小瓶に移し、城へと帰ってきたのです。




 泡となった少女を元に戻そうと、王子は毎日を忙しく過ごしておりました。その噂を聞いた城の者は、いつしか、七色の泡の事を指して、泡姫と呼ぶようになりました。噂はやがて、国の民にも伝わり、他国の者さえ、泡姫様を知るようになったのです。

 そんなある日、城に、一人の老女が現れました。老女は、直接王子に会いたいと、会うまでは帰らないと、城の門前に居座るようになったのです。

 その事を知った私は、老女に会いにいきました。するとどうでしょう、彼女は、泡姫様を元に戻す方法を知っているというのです。嘘をついているようには見えませんでした。老女は不思議な空気を持つ方でしたし、何よりもその瞳が、偽りを言うもののものでは無かったのです。

 私は彼女を城の中に招き入れ、王子と話をさせました。

 老女は、この国の者ではありませんでした。どこから来たのかは、今でもわかりません。けれど泡姫様について、確かに知っているようでした。

『貴方の泡姫は、ブロンドの髪に、蒼い瞳をしていましたか』
『えぇ、その通りです』

 老女は王子に二、三、容姿についての質問をした後、小瓶を手に取りました。そして一つ、ため息をついたのです。

『王子様、貴方は、彼女が何なのかを知っているのですか』

 老女の質問に、王子は答えませんでした。けれど老女は、わかっているというように首を振ったのです。

『あの娘は、人間ではない。海底深くで暮らす、人魚の種族の、姫君なのです。あなたは、彼女が人間ではないと、気づいていたのでしょう。そして、それを彼女に告げてしまった』

 私と王子は目を見合わせました。老女はそれを見て、全てを察したようです。

『……姫は、人間の足を手に入れる代償に、声を失いました。しかしそれも完全なものではなく、人間ではない事が知られてしまえば、泡となるような、呪いのようなものでした』
『彼女を元に戻すには、どうすればよいのですか』

 王子は、懇願するように問いかけました。すると老女は、怪しく微笑みこういったのです。

『本当の愛を見せなければなりません』

 老女は、まるでその手に何か乗せているように、右手を差し出しました。

『貴方は、彼女を助ける事もできる』

 老女は、もう片方の手の平も、右と同じように差し出しました。

『けれど、助けない事もできるのです』

 王子に注がれる彼女の視線には、何とも表現しがたい色を感じました。そこに何か、魔の力が働いているような、不思議な瞳だったのです。

 王子も私も、何も言葉を発しませんでした。次に老女が何を言うのかを、一字一句逃すまいと、耳を傾けておりました。

 老女は左の手を、ゆっくりとにぎりました。

『彼女を助けず、平穏の中を暮らすか』

 老女は右の手を、ゆっくりとにぎりました。

『代償を払い、彼女を助けるのか』
『…代償とは何なのですか』

 王子の問いかけに、老女はにやりと笑いました。その途端に、風が吹いたような気がしました。室内でしたので、あり得ぬ事ですけれど。…いいえ、そのような不思議な事も、あり得ぬ事など、本当はないのかもしれません。

『王子、貴方がこの手の中にある奇跡を使うなら、彼女は人間としての生を、再び受ける事ができるでしょう。けれどその代わりに、貴方はもう、人としては生きられない事を、お覚悟ください』

 奇妙な沈黙が、部屋の中に流れておりました。王子も、私も、老女も、誰も何も言葉を発しませんでした。人魚だった姫が、足と引き換えに声を失いました。そして、元の姿を知られてしまうと、泡となる呪いを背負っておりました。泡となった姫が、再び人の姿をとる奇跡に、何の対価もないなどと、虫の良い話があるはずも無かったのでございます。

『貴方は彼女を助けたいと言いましたね』
『…はい』
『己の身を投げ出しても、彼女を助けたいとお思いですか。それほどまでに、彼女を愛しておられるのですか』

 老女は、差し出した二つの手を、自分の方に少し引きました。

『こちらの手には、平穏が。そしてこちらの手には奇跡が。貴方が取るのは、どちらですか』

 老女はなおも、怪し気な微笑みをたたえておりました。王子は真剣なまなざしで、二つの手を見つめておりました。

『王子、貴方には、この国を背負う責務があります。そして、このまま平穏に暮らせば、輝く未来もあります。よく考えなさい。今の決定が、国をも巻き込むものになると』

 私の言葉は、王子を更に苦しめるものだったでしょう。けれど私には言う義務がございました。この国の王妃として。彼の、母親として。けれど誓って、王子の決定に口を挟む気持ちは持っておりませんでした。自分の人生を、その全てをかけても、泡姫様を救いたいと言うのなら、どうして私に止める権利がございましょうか。それは彼の母親として、喜んでしかるべきものではないのでしょうか。

 永遠にも似た、数分が流れました。時計のチクタクという音だけが、窓の外のせせらぎだけが、世界が動いているという事を感じさせるものでした。王子も、老女も、まったく動きを止めてしまっていたからです。


『私は…』

 言葉を漏らしたのは、王子でした。彼はその手を、老女の手へと伸ばしました。そして老女の右手に、その手を乗せたのです。

『もう一度、彼女の声を聞きたいのです』

 息の止まる思いでございました。小さかった王子が、このようにはっきりと、一点の曇りもない瞳で、愛する人を助けたいと言い切ったのでございます。国を思えば、それは悲しい決定でした。けれど私は、この時、涙を流したのでございます。

 老女は、先ほどと同じく、怪しく微笑みました。そして立ち上がると、王子の手の平に、その手を乗せました。そしてゆっくりと、その手を開いたのです。

『良いでしょう。王子、――――――』

 老女の声は、彼女の手が開かれると共に小さくなっていきました。そして同時に、眩しくて目も開けていられない程の光が、辺りを包んで行きました。


 私達が目を開けたとき、そこに老女はおりませんでした。その代わりに、七色の泡の入っていた小瓶が開き、そこに、美しい少女が立っていたのでございます。




 王子は、泡姫を強く抱きしめました。彼女は何が起きたのか、わからず王子のするがままに任せておりました。

 私は、老女を探しました。けれど城の者にいくら聞いても、彼女が城を出て行ったのを見たものはおりませんでした。

 歓びの去った部屋で、私たちは王子の身体に何か異変が無いかを調べました。医師を呼び、泡姫と王子、二人に診察も受けさせました。けれど、特に変わった点は見つからなかったのでございます。



 それからおよそ一年の後、王子の婚儀が行われました。妃となるのは、それは美しい、ブロンドの髪を持つ少女でございました。



(―――コンコン)
「どなた」
「私です、お義母様」
「どうなさったの」
「お義母様、良い茶葉を頂きましたの。ご一緒にどうですか?」
「あら、良いわねぇ。では、天気も良いのでテラスでお話しましょう」


 彼女は、国民にも愛され、何より王子に愛され、幸せに暮らしているようでございます。屈託のない笑顔に、私も癒されております。


 あの老女の事でございますが、私はこう思うのです。彼女は、王子を試したかっただけなのかもしれないと。

 現に、王子にも泡姫にも、特に異常は見つからず、今日この日までを生きておりますもの。

 それに、私は聞いたような気がするのです。あの日、光が満ち、声が薄れ行く中、老女は確かにこう言いました。

『王子、―――娘を頼みます』


「―――あら…? まぁ、新しい曲ね」

 テラスへと続く廊下に、優しく響いて、静かだった城に、光が差したよう。

 貴方には聞こえますでしょうか。海の中で暮らしていた美しい姫の、透き通るような声に乗る、―――この旋律が。