これは、昔昔の物語でございます。皆様には、馴染みのあるお話かもしれませんね。けれど私《わたくし》は、この目で、この耳で、見て来たのでございます。私の命の灯火も、風前となりましたので、ここに書き記してまいります。昔昔、私が海底のお城で働いていた時の事でございます。

 それは、突然の事でした。私達のお城に、太郎という名の青年がやってきたのでございます。歳は二十四、五だったと記憶しております。彼は髪の毛が黒く、端正な顔立ちをしておりました。彼を連れて来たものは、地上で助けられたお礼に、お城に招待したのだと言っていました。私はその当時、姫様のお側使いをしておりましたので、姫様に報告に上がったのでございます。

 姫様はいつも、自室で琴の稽古をしていました。姫様は口癖のように、毎日が面白くないのだとおっしゃっていました。姫様は突然の来客に、驚くとともに、とても喜んでいらっしゃいました。

「すぐに宴を開きなさい。地上のお話を伺いたいわ」

 姫様は華やかなドレスを纏うと、宴の広場へと向かいました。上座に腰掛ける姫様の前に青年が跪きました。姫様の座る上座は少し上段になっておりまして、彼との間には何層ものヴェールが垂れ下がっておりました。

「名を」
「浦島太郎と申します」
「顔を見たいわ」

 姫様の声を合図に、彼と姫様の間のヴェールが開かれました。跪いていた彼は、ゆっくりとその顔を上げたのです。私はこの時、姫様のご様子を見ていてすぐにわかりました。姫様は、彼に恋をしてしまったのです。

 御可愛そうな姫様でした。父君である竜王様は幼い姫様を残し、公務があると滅多に会いにいらっしゃいませんでしたし、母君様は姫様が幼い頃に亡くなったのだと聞いていました。父君のお言い付けで、外に出る事も叶わず、この暗い海底の城で、命の尽きるのを待っているだけの姫様でした。青年が来たのは、神の救いのようにお思いになったのかもしれません。

「太郎、城のものが世話になりましたね。しばらくここに滞在し、礼をさせてはくれませんか」
「美しい人、ありがたいお話ですが、私の父と母が、私の帰りを待っているのです。今夜は私のために宴を開いて頂きありがとうございます。ですが滞在するわけには参りません」

 驚いた事に、彼は姫様の申し出を断りました。けれど姫様は、どうしても彼に留まって頂きたかったようです。

「妾《わらわ》の城のものを、父君と母君の迎えにやりましょう。ここで共に暮らしなさい」

 彼は困っていたようですが、姫様の熱い申し出に、最後には首を縦に降りました。




 ある日、姫様は彼を自室へと招待しました。私たち使いの者はやめるように申し上げたのですが、どうしてもという姫様のお言葉に、返す言葉も見当たらず、結局は許してしまったのです。

「もっと、側にいらして」
「姫様、それはできません」
「どうして」

 彼は戸惑っているようでした。姫様は無邪気に、彼に側に来るようにとおっしゃいます。美しい姫様に、彼も心を奪われていたのでしょう。彼は顔を赤く染め、頑に姫様の側に行くのを拒んでいました。

「姫様、私は邪《よこしま》な人間です。清らかな姫様を、汚してしまいそうで怖いのです」

 彼の言葉に、姫様は驚いたようでした。けれど数秒考えたのち、自ら彼の方へと歩みよりました。

「貴方が邪だと言うなら、妾は浅ましいのもしれませんね。貴方に、汚されたいと願ってしまうのですから…」
「姫様…」

 姫様は彼の頬を両手で引き寄せ、口づけをなさいました。そして姫様は私たち使いを退室させたのです。




 それからは、慌ただしい毎日でした。姫様の婚儀の準備に、城中が沸いていたのです。新しいドレスを作り、外のものへの招待状を作りました。とにかく忙しかった事を覚えています。けれど、婚儀の前日、彼がこう言いました。

「乙姫、私の両親は、いったいいつここに来るのですか」

 この言葉には、姫様はもとより、城の者皆が肝を冷やす思いを致しました。それまで、なんとか誤摩化していた事だったのです。毎日宴を開き、酒を飲ませ、姫様との甘い時間を過ごして頂いていたのは、ご両親の事を少しでも忘れて頂きたかったからでもありました。

「…太郎、申し訳ありません。貴方の父君と母君を、ここに連れて来る事はできなかったのです」
「どうしてですか」

 姫様は悲痛な面持ちで、口を閉ざしてしまわれました。太郎様は、深くため息を付きました。そして、姫様にとって辛い言葉をおっしゃいました。

「…乙姫、私は地上に帰らなければ」

 伏せていた瞳をあげ、彼に縋るように、姫様は泣き出してしまわれました。私たちはただ、見守る事しかできませんでした。真実を申し上げれば良かったのでしょうが、当時はそうは思わなかったのです。姫様は、ご両親を迎えにやらなかったのではありません。迎えに行ったのですが、ご両親はもういなかったのです。

「太郎、お願いです。行かないで」
「両親に話をしなければ。乙姫、すぐに戻るから」
「嫌よ、行かないで…行ってしまえば、貴方は二度と戻らないでしょう」
「乙姫」

 彼は泣いて懇願する姫様を慰めるように、優しく髪を撫でました。そして、必ず戻ると約束をしました。姫様はとうとう真実を言う事ができずに、彼は地上に戻ることになりました。

 彼を地上に送る朝、姫様は小さな箱を、綺麗に包んで彼に渡しました。

「太郎、この箱を決して開けないで下さい。貴方がここに戻りたいと思うなら、決して開けてはなりません」
「乙姫、この箱には何が入っているのですか」
「それは言う事ができません。良いですか、決して開けてはなりませんよ」

 彼に箱を渡す姫様の手は、少し震えていらっしゃいました。





 それから一日がたち、姫様は太郎様の迎えをやりました。けれど約束の海岸に、彼はいませんでした。代わりに、蓋の開けられたあの箱が残されていたのです。

「開けてしまったのですね…」

 姫様はまた、以前のように部屋に籠ってしまうようになられました。私たちはまた、何も変わらない毎日を過ごすようになったのです。数年の後、姫様は亡くなられました。私たちは姫様の居なくなった城を去り、各々好きな場所へと散りました。私はというと、こうして地上に暮らしているのでございます。


 昔昔の物語。姫様は箱に、何を入れたのだと思いますか。私が地上に来てからのお話です。古い文献ですが、太郎様の地上での事を記してあるものが見つかりました。太郎様は地上に戻られてから、地上の変わり様に驚いたのだとありました。両親はもとより、知り合いは一人も生きてはいませんでした。それもそのはずでしょう。私たちの暮らしていた海底では、時の流れが遅いのです。ご両親を迎えに行った者が見つけたのは、飢えて死んでいる亡がらでした。迎えに行ったものはせめてもと、墓を作ったと聞いています。とにかく、変わり果てた世界で、彼は一人きりでした。私達は、海底で一日の後、彼を迎えに行きました。しかし、それは地上での数十年にもなっていたのです。

 彼はどんな気持ちだったのでしょう。誰も知らない世界で一人、約束の場所でなかなか現れない迎えを待つ間。

 彼の事は、その後は書かれておりませんでした。しかし、私は思うのです。決して開けてはならぬ箱。しかしそれが、唯一姫様と彼とを繋ぐものだったのですから。仕方がなかったのでしょう。彼がどんな思いであれ、箱を開けてしまったのは。


 姫様は、箱に何を詰めたのだと思いますか。最近では、箱からは煙が登り、それが収まると彼は歳を取っていたのだという物語が作られるようになりました。しかし、私たちに時を詰める事などできるはずもございません。

 約束の海岸に残されていた、開けられた箱。その空の箱には、文字が掘られていたようです。彼が文字を読めたのかどうかはわかりませんが、箱の底にははっきりと、こう書かれていたのだと聞いています。

『私は貴方を、愛していました』



 さて、皆様はどうお考えになりますか。箱の中身を、もう知る術はありませんけれど。黄泉の国で、彼らは出会えているのでしょうか。私も、もうすぐお側に参ります。お幸せであればいいと、願うばかりでございます。

 











2010.05.14