第二十六夜 曙《あけぼの》の空






 





 行方のわからない船に乗って



 広くて大きな水の上に揺られ



 天道を仰ぎ見る







 自ら光を放つことは無くても



 この水面は輝いて



 光に包まれているような



 温かい気分になるの





 果てしなく続く闇に捕われた



 小さくて儚い命に



 差し伸べられたその手





 これからは私も



 誰かの光になりたい





 金輪のようになれなくてもいい



 その光を返すことで



 誰かを照らす名鏡のように







 そんな風に、なれたらいい









◇◆◇第二十六夜 曙の空◇◆◇







「莉堂さん、桔梗がいなくなって寂しいんじゃありません? なんか最近ずいぶんぼぉっとしてますけど」

 櫻の苦笑まじりのため息に、莉堂が振り返る。一人の遊女が居なくなったからといって、夕霧廊の生活がそう変わるものでもない。ほとんどは玲奈が居る時と同じく昼に見世の準備を始め、夕方本格的に客を迎え入れる。

「…そうかもしれないですね。一昨年の今日も、なんだか娘を取られてしまうような気がしていましたし」

 二年前の今日、玲奈の十八歳の誕生日に、彼女は千秋に水揚げされた。水揚げの為に用意されている離れに案内するのは遣り手である莉堂の勤めの一つだ。売られて来た時には腰程の身長しか無い子供だった玲奈を、送り出すのもどこか感慨深かった。母親は、必ず水揚げ前に買い戻すと言っていたが、そんな約束が守られないことはここではよくある話だった。後から聞いた話ではもうこの世を去っていたらしいから仕方が無いことだったのだが、それでも世の無情を憂えざるを得ない。憂いたところで、莉堂にどうにかできることでは到底ないが。

「へぇ? 初耳ですね」

「まぁ、ここにいる遊女たちは全員、娘のようなものですから」

「ふふ。またまた。今月の太夫御職って桔梗だったんでしょう? 金の鶏を逃がしてしまってちょっと残念とか」

 御職などという肩書きを、彼女が望んでいないことは二人とも分っている。だからその事実も、玲奈には知らせずに送り出した。櫻の言う冗談に二人で笑い合いながら、お互いの寂寥に気づかないふりをする。

「その花、素敵ですね」

 去り際、纏め上げられた櫻の髪に刺さっている白い花に気づいた。

「あぁ、これ? さっき散歩に出たら道ばたで咲いてたから。もうそろそろ枯れちゃうだろうし、どうせならと思って。後で水にさしとこうかな」

「今の時期に? 強い花ですね」

 笑いかけると、櫻も笑みを返した。お互いに、言わずとも何を思ったかはわかっている。



 自分の道を見据え、厳しい環境の中でも強かに生きて行く。





 その姿が、彼女の笑顔を連想させた。




◆◇◆◇◆




 千秋が玲奈を身請けした時から一年が過ぎ、明日は玲奈の二十一歳の誕生日だ。生活感の無かった千秋の家に、今では暖かな家庭の空気が流れている。

「今日は早く帰るから。…でも、本当に大丈夫? 玲奈いっつも転びそうになるし、心配」

「だ、大丈夫ですよ…! 孝雄さんも一緒ですし」

「…そこが一番心配なんだけどな…」

 明日の玲奈の誕生日は千秋が二人きりで祝いたいと言ったので、孝雄は泣く泣く当日の玲奈とのデート権を譲り、前日の今日で妥協した。玲奈が千秋を説得している間に、インターホンがなり、ドアが勝手に開けられる。

「玲奈ちゃーん! 迎えに来たよ〜」

「あ、はーい」

 玲奈があわてて玄関まで迎えにでようとすると、バランスを崩して倒れそうになってしまった。

「あぁ、ほら。言った側から」

 千秋の腕に支えられ、体勢を立て直される。頭上から降る声が、折角説得していたさっきまでの時間は無駄だったと告げていた。後はもう、流れに任せるしかない。千秋は玲奈の安全に対してだけは、本人の意見を総じて無視することが多々あった。

「…すみません」

 気まずい空気の中、千秋の視線から逃れるように顔を反らす。

「おい、玲奈ちゃんいじめちゃ駄目だぞ」

「…いじめてません」

 孝雄が千秋の手から玲奈を奪って、玲奈の頭を撫でる。一年前よりも少し白髪の割合の増した髪と髭が、更に威厳を与えていた。その様子を、千秋が不機嫌そう眺める。

「ほら、お前は仕事だろ。さっさと行って来なさい」

 見せつけるように肩を抱いて、ねー、と玲奈に笑いかける。

「……じゃぁ、玲奈のことお願いしますね。玲奈も、あんまりはしゃぎすぎないでね。もう自分だけの身体じゃないんだから」

「あ…はい。いってらっしゃい」

 孝雄がいると、千秋は子供のように独占欲をみせる。少し不機嫌な千秋を見送ってから、コートを取って来るからと孝雄を待たせて一度部屋に戻った。

「……本当に、いるのかな…」

 まだ膨らんでこないお腹に手を当ててみる。少し前、なんだか熱っぽいのと吐き気がするのとで、風邪を引いたのだろうと病院に行った。かかった内科の先生が妊娠しているのかもしれないと言うので産婦人科に行き、妊娠二ヶ月だと診断された。自分が母親になるなんて考えていなかった玲奈だったが、自分の中にもう一つ新しい命があるという事実に感動した。一緒に結果を聞いていた千秋は感極まったというように玲奈のことを抱きしめて先生を苦笑させていた。

「玲奈ちゃーん?」

 考えこんでしまっていたのか、孝雄に呼ばれて随分待たせてしまっていることに気がつく。

「はーい! 今行きます!」

 走りたい気持ちもあったが、自分の運動音痴を考えて諦めた。夕霧廊にいるとき、別段運動不足だと思ったことはなかったが、それは夜に沢山運動をしていた為だ。遊女としての技量が試されはするが、その行為には特に運動神経は必要ない。新吉原を出てからわかったことだったが、自分はスポーツに向いていないらしい。ルールとか、練習とかいうレベルでなく、根本的なところから。




◆◇◆◇◆




 夜、千秋が帰ると玲奈が玄関で出迎えた。おかえりのキスは、ここに暮らし初めてからずっと続いている習慣だ。千秋がそれは普通誰もがすることだと言い張るので、玲奈はそれを信じるしかなかった。

「今日はどうだった?」

 千秋の鞄を持とうと手を伸ばすけれど、その手を握られて一緒にリビングに入る。

「ふふ、楽しかったですよ。お料理もおいしかったですし」

「それは良かった」

 千秋は玲奈をソファに座らせると、膝の上にブランケットをかける。部屋の中は空調も完璧で寒いということはないのだが、千秋の今一番の感心ごとは玲奈と、そのお腹の中の子供だった。キッチンでハーブティを入れる千秋の姿を見ながら、ここまで過保護にならなくても大丈夫なのにと、少しおかしくなって口元を緩めると、二つのカップを手に戻って来た千秋が首を傾げた。

「どうしたの?」

 玲奈が火傷しないように、持つ所にタオルが撒かれたカップを受け取りながら、やはりこれでは少しやりすぎなのではと思う。妊婦は世間でも大事に扱われる存在だが、それでなくても過保護だった千秋が、ますますエスカレートしている。

「…えと、いえ。あ、明日はどこかに行くんですか? それとも家で?」

 それでも自分が大切に扱われることに、特に悪い気は起こらなかった。それだけ、千秋が自分を愛していると感じることができるから。

「昼は外に行こうか。適当にドライブでもする? 夜は何か俺が作ってあげる」

 適当に、と良いながら、とても適当に決めたとは思えないようなびっくりな所へ連れて行ってもらうことが多かった。玲奈の喜ぶことを、千秋は何でも知っているかのようだ。

「楽しみです」

 頬を緩めて千秋を見上げる玲奈を、彼の手が抱き寄せる。半分程飲んでいたハーブティをローテーブルに置いて、千秋の手に身体をゆだねた。時間はゆっくりと流れていて、二人の間の空気はとても穏やかだった。千秋の手が玲奈の黒い髪を一房すくってキスを落とす。こういう仕草にも、未だに慣れなくてどきどきしてしまう。

「…なんでも、玲奈の喜ぶことなら」

 これ以上幸せなことはないと、毎日思う。毎日少しずつ、二人の時間が重なって行くのがとても嬉しい。千秋の手が頬を撫でて、その吐息を感じる程に近くに彼を感じる。なかなか触れない唇に焦れて、玲奈の方からちゅ、とキスをする。

「はは、我慢できなかった?」

 千秋は笑いながら、玲奈の唇を弄ぶ。舌を絡めて、唾液を絡めて。ふと、千秋が玲奈のお腹に触れる。

「……本当、ここに子供がいるって不思議だね」

 しみじみと言う千秋に、玲奈はくすと笑った。

「…赤ちゃん、千秋さんに似た男の子がいいなぁ…」

 お互いの唇を食みながら、玲奈が呟く。それに、千秋がいつものように呟き返した。

「くすくす、俺は玲奈に似た女の子がいいな」

 いたずらっこみたいに、二人で見合わせて笑いあう。



 こんな幸せな毎日を、これからもずっと重ねていく。







 きっと楽しいことばっかりではなくて、このまま続く毎日の中にも落ち込んでしまうことはあるだろう。でもそれも、次の光に会う為の準備。



 どんなに暗い夜でも、いつかは有明の空に変わる。



 一人で歩いていた道には、いつの間にか手を握っていてくれる誰かが一緒に歩いていた。霧の立ちこめたその場所は、いつの間にか霧が晴れて蒼く透き通る空が続いていた。



 長い長い道の先、何があるのか知る術はないけれど、それでも一歩ずつ進んでいけば――。









 日陰を生きるもの達にだって、いつかは光に溢れる広い空に―――





 ―――愛されるときが、必ず来るから。





[2019年 3月 13日改 2008完結]