[2019年 3月 13日改]
芳香に誘われ 羽をもって色香を運び 更なる蕾に育てるも 泣く泣く枯らすも己が次第 闇に舞いし黒揚羽 胸にとまるは気まぐれなるも 捕らえる術を 知らず逃がすが関の山 強く儚き姿をさらし 白く気高き花弁に会いて 心揺らすと言うならば 咲かせてみせよ 月夜に婀娜めく大輪花 ◇◆◇第二十五夜 涼秋の旅立ち◇◆◇ 「桔梗、あんたこんなところで何してんの! さっさと支度しないと駄目じゃない」 「あ、…えっと…すみません」 櫻の声に、玲奈は自分が時間を忘れて立ちすくんでしまっていたことに気がついた。千秋が来た日から数日、会社を継ぐ準備や会見などで多忙の中でも、彼は毎日夕霧廊に顔を出していた。保留となっていた書類も揃い、今日、玲奈は十五年過ごした新吉原を出て行くことになっている。昨日の夜は、色々なことを考えすぎてよく眠れていなかった。だから朝早く夕霧廊の庭に出て、そこから見える新吉原の景色をぼんやりと眺めていたのだ。お世話になった人たちに挨拶をすませ、着物や小物などしかないが、自分の持ち物を前もって千秋に預けている玲奈は、後は千秋が迎えにくるのを待つだけなのだが、やる事が無い状況が考える時間を作ってしまっていた。 「まさか彼が身請けしてくれるなんてねぇ。あんた最初から好きだったみたいだし、泣くだけだと思ってたけど」 「え…」 櫻の後に付いて歩いていると、櫻がそう呟いた。 「でも本当、良かったわね。おめでとう。幸せに暮らしなさいね」 「…櫻姉さん…」 廊下の終わり、櫻は振り返って玲奈に微笑む。 「…あぁあぁほら泣かないの! 西城様来ちゃうわよ!」 その笑顔を見て泣き出してしまった玲奈を慰める。千秋に身請けされる事が決まり新吉原を出る玲奈に、大抵の人はおめでとうと声をかけてくれたけれど、ここに働く遊女は違った。元々少し敬遠されがちだったのが、ここ数日は顕著だった。櫻だってまだ明けない年季まで、ここで働いて行かなければならないのは同じなのに、それでも玲奈の幸せを祝ってくれるなんて。 「櫻姉さん…ありがとう。私……今、本当に幸せ…」 「あんたが頑張ったからよ。これからもっと幸せになれるからね」 櫻の言葉が胸に沁みて行く。 最初に身請けの話を貰ったときのように、どこまでも舞い上がる様な幸せではなくて、じわじわと、ゆっくりそれを噛み締めていくような。心の奥に、徐々に溜って行く様な暖かい感情だった。 ◆◇◆◇◆ 結局その後も泣いてしまって、腫れた目のまま千秋を迎えると、彼はやっぱりと言って笑った。 「じゃぁ、貰って行きますね」 「えぇ、良くしてやって下さいね」 千秋とともに、夕霧廊の門の前で挨拶をする。見送りに、莉堂と櫻と二人の禿が出てきてくれていた。門まで出ると、待ち構えていたのか、学が大きな花束を渡してくれた。孝雄や美冬は今日の夜に本宅へ挨拶に行く事になっているので、この場には来ていない。 「あれ、学は帰らないの」 「俺はまぁ、この後こっちで祝賀会でもやるから〜」 「は? 本人たちいないのに?」 「それがまた盛り上がるんだろ」 「あぁ、そう」 学が帰る側にいないのでそう聞いたが、千秋に取ってはどうでもいいことだった。両手で収まらないくらい大きな花束に埋もれてしまっている玲奈からそれを取り上げて、空いた玲奈の手を握る。 「まったく、玲奈のサイズ考えろよ」 花束を無造作に扱う千秋に少し戸惑いながらも、手を握ってくれていることに安心する。千秋に白い目を向けられた学は、千秋からは目をそらして玲奈の方ににっこりと微笑む。 「え〜? 俺の玲奈ちゃんへの愛の証なのに、ちっさいのは贈れないだろ。ね〜」 話題を振られて戸惑う玲奈に、千秋が相手にしなくていいと言った。玲奈の知らないうちに、櫻、莉堂、学、千秋の間になにやら親しい空気が流れているようだ。主役のはずの玲奈を差し置いて、四人で笑い合う。 「さ、行こうか」 一通り笑い合ったあと、千秋が玲奈を振り返る。 「元気でね」 「桔梗をよろしくお願いします」 「じゃ、またね〜玲奈ちゃん」 「「桔梗姉さん、お元気で!」」 五人に深くお辞儀をして、玲奈は千秋の手を握り直して歩き出した。 ◆◇◆◇◆ 「はい。確かに。通って良いですよ」 大門までの道は、遊女はあまり通らない。小さい頃に一度、夕霧廊に行く為に歩いたその道を逆にたどり、大門まで来た。近くで見るその門はやはり大きくて、威圧的に見える。 「玲奈? 行くよ」 玲奈の通行許可証を見張り衆が確認し、いよいよ大門を出ることになった。ゆっくりと、新吉原の境界を越え、外の世界へ踏み出す。咎められることもなく超えた門の外は、そんなはずはないのに空気まで違うような気がした。千秋も玲奈の気持ちを察してくれているのか、玲奈のひどく鈍い動きに文句もつけず合わせて歩いてくれていた。 「……大きい…」 内側からしか見た事のなかった大門を、千秋と一緒に外から見ている。静かな感動を胸に、新吉原に向かってもう一度、深く深く、お辞儀をした。 車を初めてみたわけではなかったが、現代の利器をほとんど使わない新吉原で育った玲奈には、何もかもが珍しかった。千秋が開けてくれた助手席に乗り込むのをためらっていると、くすくすと笑う彼に抱き上げられ、ふわりとシートに座らせてくれた。 「わぁっ動いた!」 「あはは、楽しい?」 「はいっ」 育った地を離れる感慨は、怒濤のように押し寄せる目新しいものに一時影を潜める。興味津々に窓の外を眺める玲奈に街の中を軽く説明しながら、彼女の笑顔に頬を緩めた。 千秋はまっすぐ自分の家に帰らず、孝雄に聞き出しておいた所で車をとめた。 「ここは…?」 周りの雰囲気に玲奈は戸惑っているようだ。孝雄の話では、白い石が整然と並ぶその場所に、その人が眠っているらしい。 「まずは挨拶しよう」 千秋は玲奈をシートから降ろして、また手を取って歩き出す。手を引かれて歩くうち、玲奈の中に予想が生まれた。千秋の立ち止まった真ん前にある石に掘ってある文字を見て、息をのんだ。 「……」 立ち尽くす玲奈に、水とか持って来るから、と残して千秋がどこかに行ってしまった。残されたまま動けず、白く冷たい墓石を見ていた。 「……お母さん……」 ほどなくして戻って来た千秋が、水をかけ、いつの間にか持っていた花を供える。 「ほら、報告しよう」 促されて、千秋に習って墓石の前にしゃがんで手を合わせる。 (……お母さん…。お母さん、お墓参り、遅くなってごめんね。…ごめんなさい…何を言っていいのかわからないの…。あのね、この隣にいる人が、私の好きな人なの。あのね…私、今幸せだよ…。お母さんにも、これからはきっともっと色々報告に来るね) 玲奈が目を開けると、千秋はまだ目を閉じて何か話しかけているようだった。ゆっくりと目をあけた千秋が、玲奈に微笑む。 「千秋さんは、何を話していたんですか?」 「んー? 秘密」 無邪気に笑う千秋に何度か探りを入れてみたが、いつものようにちゃかされてしまって結局は聞き出せなかった。 「玲奈は?」 「……、秘密、です」 少し意地悪して見ようと思って言ったのに、玲奈の期待に反して千秋はそっか、と笑った。秋の少し冷たい風に二人の声が乗って空へと消える。夕霧廊の部屋から、どこかにいると思っていた母へ、寂しいときや、切ない気持ちを報告することはあったけれど、今のようなことを報告するのは初めてかもしれない。冷たい風の中に、ひと筋の温もりを感じたような気がした。 ◆◇◆◇◆ 「はいどうぞ。これからは、ここが玲奈の家だよ」 玄関の扉を開けて、玲奈を中へ通す。あまり家にいない千秋の家は、生活している気配が全くと言っていい程ない。綺麗に片付けられた、というよりも、物がなくてただ広い空間が広がっている。リビングに案内され、その中を見渡す。奥にあるダイニングにはカウンター付きのシステムキッチン、冷蔵庫があるけれど、どこの家にもあるような鍋やその他の調理器具はなかった。玲奈には初めてみるものばかりで何が普通かわからないが、それでもこれは素っ気ないような気がした。夕霧廊の台所はここのものとはまるきり違うけれど、客や遊女が使う陶器や箸などは揃っていた。リビングの真ん中に大きなソファとローテーブルが置かれ、壁にはこれでもかという程薄いテレビが貼り付いている。千秋の家は高級マンションのワンフロアを買い切っているため、階段や庭などはないが、木材の柔らかな色で統一されたおしゃれなテラスがあって、そこで菜園もできるようになっている。千秋一人で暮らしていたので、まったく使わない部屋も沢山あって、そのうちのいくつかを玲奈の為に改装していた。 「玲奈、こっちが玲奈の部屋」 「……わ…ぁ…」 自分の為の部屋を用意してくれていることにもだが、その内装を見て今度こそ驚いた。 「しばらくは慣れないだろうから。この方が落ち着くかと思って」 案内された部屋は、他の部屋とは違って全てが和風に統一されていた。夕霧廊で、玲奈が使っていた部屋に間取りがよく似ている。 「こっちも玲奈の部屋だからね」 和風の部屋の隣の部屋を覗くと、そこはさっきとは打って変わって洋風の内装だった。クリーム色に薄い茶色のストライプが入った壁紙と、カントリー調の家具が空間に柔らかなイメージを与えている。 「そこのカーテンの奥に扉があって、さっきの部屋と繋がってるから。それで、玲奈の物はこっちの部屋に入れてあるから」 まだ部屋があるのかという驚きは、言葉にするまでもなく玲奈の表情に出てしまっている。それを面白く思いながら、今度は部屋の奥の方のカーテンを開け、そこにあった扉を開けてどんどん説明していった。夕霧廊にあった玲奈の持ち物や、見た事ない服やアクセサリー、靴やバッグなどが綺麗にディスプレイされて、ショッピングウィンドウのようなその部屋を見て、玲奈はめまいを覚えた。 「あ…あの…」 「ん? 気に入らなかった?」 気に入らないなんてとんでもない! とばかりに、ぶんぶんと首を振った。それでも、ここまで手を尽くされてしまうとなんだか居たたまれない。 「でも…」 「…これは、玲奈が俺の所に来てくれたのが嬉しくて俺が勝手にやったことだよ。玲奈に似合うものをって選んでたらついはしゃぎすぎちゃって。だから俺の為と思って、受け取ってもらえると嬉しいな」 千秋はいつも、そうやって玲奈が気を遣ってしまわないように言葉を選ぶ。やはり千秋は根が優しい人なんだと思う。 「…はい。ありがとうございます、千秋さん。とっても素敵です」 玲奈が笑いかけると、千秋が抱き寄せて来た。髪の毛の中に顔を埋め込むように息をつく彼に、玲奈も頬を擦り寄せる。 「……うん。可愛い。嬉しいことは、素直に喜んで。辛い時には側で慰めてあげるから」 唇で髪をかき分けて、その耳元に囁く。低く響くその声は、いつもの声よりも何倍も色っぽい。 「……はい…」 離れた千秋に自分から口づけて、ふわっと微笑んだ。 ◆◇◆◇◆ 「まぁまぁ、初めまして。どうぞ上がって」 夕方、夕食に招待されていた為、千秋とともに千秋の実家にやってきた。 「は…っ初めまして…! えっと…、よろしくお願いします」 かなり緊張していた玲奈は、くすくすと笑う景香を見て少しほっとした。千秋の背中を追ってリビングまで来ると、美冬や孝雄が食卓に勢揃いしていた。 「もう準備万端で待っていたのよ? 千秋の隣に玲奈ちゃんでいいでしょう?」 「うん。あ、母さん、これお土産」 座って、と言われた席に静かに座って、千秋と景香の様子を眺める。 (…良かった…気まずくなったりしてないみたいで…) 自然に見える二人に、不安要素だったものが一つ流され、ほっと息をはいた。 「玲奈ちゃん、本当に今まで大変だったでしょう。よく頑張ったわね」 景香は凛としていて、その中に優しさを宿す様な雰囲気のある女性だった。遊女として働いていた玲奈の事を差別するのではなく、その事実に純粋に同情してくれている。 「…でも、私は千秋さんが居たから…」 「あ、そうそう聞きたかったんだよ。なんでこんな奴好きになったの? 自分で言うのもなんだけど、うちの息子達って顔ばっかりよくて性格悪いでしょ?」 「おい親父、たちってなんだよ? 性悪なのは兄貴だけだろ」 「はは、美冬も言うようになったね」 「あ、…いや、えっと…」 千秋が美冬ににっこりと微笑むと、美冬が冷や汗をたらす。夕食の席は会話が絶える事もなくて、複雑な血縁関係に戸惑っているのは玲奈だけだと言うように自然に会話の中に流されていた。禁句になっているわけでもなくて、どうしてこんなに普通に話せるのかと思う程だった。 「そうだ玲奈ちゃん。美冬とは腹違いなんだし、ちょっとお兄ちゃんて呼んでみてあげてくれないかな」 「あ、それちょっと面白いかも」 「ばっ!? おい、何言って!」 孝雄の提案に、千秋が賛同し、景香は笑い、美冬が真っ赤になって抗議した。最初にあった緊張もほぐれ、その会話の中に自然に加われることが嬉しかった。 「あのさぁ」 夕食が終わり、リビングで談笑が始まって大分経ったときだった。玲奈は孝雄に話を聞いたり聞かれたりしながら、チェスを習っているところで、千秋が切り出した。テレビを見ていた美冬も、お茶の用意をしてリビングに戻って来た所の景香も千秋の方を見る。 「俺、玲奈と結婚しようと思うんだ」 千秋の言葉を受けて、四人の中で一番驚いたのは、玲奈だった。驚きのまま固まっていると、千秋が手を伸ばしてきて立たされ、抱き寄せられる。 「いいでしょ?」 許可を取るというよりも、決定次項をただ報告しているだけのような態度に、孝雄も美冬も呆れて言葉を失っていた。景香だけが、じゃぁ結婚式の準備しなくっちゃ、結婚は早い方がいいわよ絶対、等と意気込んで喜んでいる。当事者であるはずの玲奈は、置いてけぼりをくっているようだった。 (………えっと……けっこん……?) 数日前、朝に起きると左手に指輪が嵌まっていた。ウェーブラインが薬指を綺麗に見せるような、繊細な指輪だった。尋ねると千秋はただ、「予約」とだけ言った。玲奈はそれだけで、千秋との関係が恋人と呼んでいいものになったのだと喜んでいた。その先に何も期待することなくただそのことに喜んでいたのに、それが今突然に大きな未来になって目の前に置かれたのだ。 「玲奈? 玲奈、聞いてる?」 抱き寄せられたまま放心していたのか、千秋に呼ばれて我に還る。いつの間にかリビングには二人しかいなくなっていた。 「…あれ…?」 「皆にはちょっと待機して貰ってる。やっぱり、恥ずかしいし、皆の前でだとずるいかなと思って」 「え…?」 今まで柔らかく微笑んでいた千秋が、急に真剣になって玲奈に向き合う。 「玲奈」 いつも余裕のある千秋が、今はなんだかその余裕を無くしている。緊張しているのが伝わってくる様で、玲奈は自分の手足が震えているのを感じた。 「……俺と…結婚してくれる…?」 あんなに堂々と宣言しといて、これは反則だと思った。千秋の声が鼓膜を揺らすと同時に、涙があふれて落ちる。 「…もちろん、玲奈が駄目だって言うなら無理強いするつもりはないけど…」 嫌だなんて、そんな事絶対にありえない。玲奈が強く首を振って否定すると、千秋は困った様な顔になった。 「…それは、どっちの否定?」 珍しく弱気な千秋に、今度は笑ってしまう。 「……嬉しいです…私、千秋さんの奥さんになれるなんて…夢みたい…」 玲奈の言葉で、千秋の表情も緩む。そっと抱き寄せられて、唇に唇を重ねた。 二階に待機していたらしい家族を呼んで、二人でもう一度報告し直した。孝雄がしきりにお父さんと呼ばせようとしたので、一度そう呼ぶと思いっきり抱きしめられてしまった。それを見た千秋が孝雄を剥がして玲奈を取り戻した。 「あの、美冬さん…」 景香や孝雄に散々いじられた玲奈は、そう言えばあまり美冬とは話していないような気がして、千秋の車の前まで見送りにきた美冬に声をかけた。 「…この間は、ありがとうございました」 「は、…あぁ。…まぁ結果的に良かったんじゃん? 馬鹿親父のせいで、妹が居る事をこの年まで知らなかったっていうのがムカつくけどな」 「……」 「…なんだよ?」 美冬の口から、妹などという台詞が出て来たことに驚いて、目を丸くした。怪訝そうに首を傾げる美冬に、玲奈は笑ってみせる。 「ううん、ありがとう、お兄ちゃん」 「はぁ!? あ、おい!」 玲奈はそう言うと、千秋がドアを開けて待ってくれていた車に乗り込んだ。玲奈がちゃんと乗った事を確認してからバタンとドアを閉めた千秋は、それ以上笑いをこらえる事が出来ずに吹き出してしまう。周りにいた孝雄はその前から腹を抱えて笑っていて、景香は口元を抑えて平静を装っている。 「俺と玲奈が結婚したら、玲奈の方がお姉ちゃんだね」 放心している美冬の肩をぽんぽん叩いて、千秋も運転席に乗り込む。 「? なんで皆笑っているんですか?」 「んー? 美冬が可愛いって話でだよ」 そうか、可愛い話かぁ、と額面通りに受け取って、玲奈は西城家に落とした爆弾に気づかず、千秋と送るこれからの生活に胸を躍らせていた。
[2019年 3月 13日改]