眠れない夜は ホットミルクを 眠れない夜には 子守唄を 悲しい夜は 物語を聞かせて 悲しい夜には そっと抱きしめて あなたがいたなら 当たり前だったかもしれないけれど 今私がここにいる それだけでも それだけで 奇跡と呼べるから Episode 006. Night before the Espousal - 結婚前夜 - カレルが来たのは、一ヶ月くらい前の事だっただろうか。ユキノは熱で朦朧《もうろう》とする思考の中、彼の事を考えていた。あれからすぐ、ユキノの体調は急変した。どんな薬も、ユキノの症状を和らげる事はできない。そんな中、ついに明日、ユキノの結婚の日がやって来る。祖母も伯母も、ユキノの体調を心配してくれていた。それが、ユキノ自身の為でなくとも。ラフも毎日来てくれていたが、その度にユキノは気分が悪くなった。彼の纏う空気は和やかなのだけれど、何故か身体が本能的に、信用できないと警告を発しているような気がする。 「大丈夫ですか? 明日、少しでもよくなるといいのですが…」 今日も、耳元でラフの声がしていた。何かを話しているようだったが、ユキノは聞いていなかった。 熱い吐息《といき》が流れ込んで来る口内を、ゆっくり蹂躙《じゅうりん》する柔らかい舌。あの時のキスが忘れられない。彼は、あれから姿を見せていなかった。 「…ユキノさん? 何を考えているのですか?」 ラフの台詞で、ユキノはラフの方を見た。彼は眉間にしわを寄せ、少し不機嫌そうだった。ユキノがあまりにも彼の話を聞いていなかったので、ついに怒らせてしまったかと、少し焦る。 「あ……す…みません」 久しぶりに出した声は掠れて、とても弱々しかった。ラフは表情を崩し、またいつものように笑う。 「あ、すみません。怒っているんじゃないですよ。ただ、何を考えているのか、ユキノさんは話して下さらないので」 まさか、カレルの事を――悪魔の事を考えていた等と正直に答えられるはずもない。ユキノは曖昧に笑って、ラフから視線を外した。ふと見た窓にはカーテンがひかれていて、外の様子を見る事はできなかった。 「…誕生日…」 「え?」 来なければ良いのに。続く言葉は、ラフがいたのだと思い出して止めた。もうどうせ、自分は長くはないだろう。そうしたらきっと、カレルが魂を食べてくれるのだ。誕生日の夜、初夜を迎える前に、死んでしまった方が幸せかもしれないと、ユキノは真剣に考えていた。 -†-†-†- ユキノは少し眠ってしまったらしい。いつの間にか部屋の中は暗くなっていて、部屋にいたはずのラフも帰っていた。起きられそうだったので、ユキノはベッドから這い出した。そして窓のカーテンを開ける。 「……カレル…」 「何」 カーテンを開けると、閉められたままの窓にカレルが映っていた。幻かと呼んでみると、後ろから彼の声がする。ユキノが振り返ると、さっきまでユキノがいたベッドにカレルが座っていた。膝に肘を乗せて、頬杖をつき、まるでずっとそこにいたように寛《くつろ》いだ体勢でユキノを見ている。 「…いつから…」 「んー。ずっといたけど?」 ずっと、とは、いつからをさすのだろうか。悪魔の感覚は、ユキノにはわからない。いたなら、もっと早く出て来てくれたら良かったのに。ユキノはそう言おうとしたが、出たのは声ではなく咳だけだった。息が苦しくなる程咽せこんで、やっと止まった時には目に涙が溜っていた。カレルはさっきの体勢のまま、ユキノを見ている。 「魂が…」 「……え…?」 ユキノが疑問の声をあげると、カレルは微笑んでユキノの近くまでゆっくりと近づいてきた。そしてユキノを抱き上げて、ベッドに寝かせる。 「また綺麗に育ったもんだと思って」 カレルは、ユキノの心臓の辺りを見ているだけで、ユキノを見ているわけではなさそうだった。きっとそこに、ユキノの魂があるのだ。カレルの表情は、大好物を目の前に置かれた小さな男の子と同じだった。 「……食べたい?」 ユキノの声は相変わらず掠れて聞き取りにくかったが、カレルはそれでも聞き取ってユキノを見た。そしてこの前と同じように、手を頬に添えて近づく。 「あぁ。あんま我慢できない質《たち》なんだよね。俺」 魂を食べたいと言われているのに、ユキノは怖くなかった。むしろ、それが一番幸せなのだろうとすら思っていた。近づいて来る唇を、大人しく待った。カレルのキスは、嫌ではない。 「明日、結婚なんだって?」 「……ん…」 濡れた音が部屋に響く。舌を吸われると、背中に電気が走るような気がした。カレルはユキノの寝間着のボタンを一つ一つ外して、胸が見えるか見えないかまで露出させる。火照った身体に、カレルの冷たい手が当たってユキノは身じろいだ。 「…や…カレル…」 「何」 「…冷たい…」 「我慢」 言いたい事は、それでは無かったはずなのに、咄嗟に出た言葉はそれだけだった。カレルはユキノの唇を離し、そのまま首筋に顔を埋める。徐々に下がる舌の感触に、ユキノは身体を震わせた。 「いた…っ」 胸の少し上だろうか。舐められていた場所に、ちくりと痛みが走った。そうかと思うと、カレルは顔をあげ、ユキノを見下ろす。 「結婚、おめでとう?」 「?」 カレルはそのままユキノから離れて、窓の桟に飛び乗った。くすくすと、一人で楽しそうに笑っている。にやにやと目元を緩めるいつもの顔で、ユキノの方を振り向いた。 「前にも、キアラに言ったかもね」 「え?」 「悪魔からの祝福は、いらなかった?」 その言葉を残して、夜の闇に溶けた。カレルの去った窓からは夜の涼しい空気が入って来て、熱を持ったユキノの身体を冷まそうとする。ユキノは起き上がって、窓を閉めた。そして、窓に映る自分の姿を見てまた顔を赤くさせる。 「あ…」 開いた胸元に残っていたのは、カレルの残した痣《あざ》だった。こんな所にキスマークを付けられては、明日、ラフにどう言い訳すれば良いのだろうか。ファンデーションで隠れれば良いけれど。明日の事を思うと、ユキノは遣る瀬ない気持ちになった。あのまま、カレルに奪われていれば、きっとラフはこんな娘は要らないと言っただろう。こんな、悪魔と触れ合って嬉しいと感じる娘など。ユキノはベッドに戻った。悪魔に心を奪われるなんて、なんて愚かな事なのだろうか。まだ子供の自分では、どうやったって彼の心に留まる事なんて出来ないことはわかっているのに。 -†-†-†- 森の入り口である二股の大木の前に立ち、カレルは舌で牙を舐めた。輝くような美しい魂は、キアラのモノと瓜二つだ。ユキノの魂にキスするだけで、それを頬張ったときの快感がこみ上げて来る。カレルは自分の手の平を見た。ユキノの胸はまだ幼く、カレルの手では余ってしまう。キスをした唇も、彼女のものはとても小さい。舌をねじ込むだけでも精一杯で、唾液が溢れてしまっていた。キアラは、カレルに身体を触らせなかった。不意打ちをした頬にキス以来、一度も触らせはしなかった。キアラにあって、ユキノにないものは、警戒心だ。悪魔である、というよりも雄であるカレルに対して、ユキノは警戒心が足りていない。 「気持ち良さそ…くすくす」 うっとりと、自分を見つめるユキノの目に、カレルは一瞬我を忘れてしまいそうになった。からかうためにしていた行為を、自分の快楽の為に変えてしまいそうだった。悪魔は非道な生き物とされているが、カレルのような高等悪魔になると、契約以外では人間を食い物にはしないのだ。だいたい、あんな子供に欲情するなんてどうかしている。カレルはくすくすと自分を笑った。そして、いつか聞いた祈りの歌を歌いながら、悪魔の棲む森へと消えていった。 -BEASTBEAT 悪魔の天使-