09







 君の為

 皆の為

 ―――誰かの為。



 何かをする時

 それは一番必要なもので

 

 想いは強ければ強い程

 その力を示すから




 だけど、ごめんね。

 誰の為でもない


 全部

 自分の為なんだよ





 Episode 009. Born Under The Benign Planet - 星の下 -





 液体を飲み干した瞬間から、その戦いは始まっていた。身体中を熱湯が駆け抜けて行く様な、激しい痛みだった。永遠《とわ》にのたうち回るのかと、絶望が過《よぎ》る。誰もいなくなった森の中は、動物達の気配もない。きっと、彼らは尋常ではない妖気を察知して逃げてしまったのだろう。人間は死の直前、脳がよく働くと聞いた事がある。聞くような余裕は全くないというのに、風の音やそれにそよぐ葉擦れの音までよく聞こえていた。

「……っ」

 キアラは、地面に伏した。自分が特別だと思っていたわけではないが、やはり絶望は拭いきれない。なんて事はない、死期を自ら早めてしまっただけの事。

「あ…っ」

 消えた悪魔は、自分の事を笑っているのだろうか。死を願っていた、あの綺麗な悪魔は。キアラは彼に聞いた、彼の名を呼んだ。キアラは、それが声になっていない事に気がついていなかった。



        -†-†-†-


「あーぁ。やっぱダメか」

 キアラが苦し気に横たえるのを、カレルは木の上から眺めていた。そのまま帰ってしまっても良かったが、もしキアラが生き残ったら面白いと思い引き返してきたのだ。どうやら、キアラは選ばれなかったらしい。カレルが彼女を眺めていると、キアラがしきりに口を動かしている。声にならずとも、それが何を言おうとしているのかはわかった。

「名前なんて呼んで、どーすんの」

 名前に、力なんて無い。飲んでしまった悪魔の血を吐き出させる事も出来ない。カレルがこの後することは、キアラとその腹の中の子の魂を食べることだけだ。しばらくすると、キアラの身体から力が抜けた。ぴくりとも動かない彼女に、死者に寄る精霊がゆっくりと近づいて行く。カレルは木から飛び降りると、キアラの側まで歩いた。カレルの妖気に、精霊は驚いて逃げて行く。

「……キアラ」

 カレルは彼女の名を呼んでみたが、やはり返事はおろか反応すら無かった。カレルは彼女の身体を抱き上げて、魂を取ろうとした。しかし、カレルが魂に触れる直前、キアラの身体がびくんと大きく跳ねたのだ。

「は?」

 何百年と生きてきたカレルでも、こんな現象は初めて見る。カレルの腕の中の少女の身体はぼんやりと淡い光を放っていた。よく観察すると、その光はキアラから出ているわけではないようだった。

 生きようとする力は、奇跡をも起こしてしまうのだろうか。やがて光が収まると、青白かったキアラの頬に赤みがさした。脈も呼吸も正常で、魂さえ見えなくなってしまっている。

「…ん……? カレル…?」

 そのまましばらく抱きかかえていると、キアラが目を覚ました。しばらく虚ろに何かを考えていたキアラは、はっとしたように目を開いて自分のお腹を抑える。

「……生きてる…?」

 自分の事だろうか、それともお腹の子供の事を言ったのだろうか。カレルは何も言わず、ただキアラの事を観察していた。カレルは、悪魔の血を飲んで生きた者を初めてみた。いや、生き残ったものを初めて見たというわけではないが、その過程を初めて見たと言えば正しいのだろうか。とにかく、カレルが今まで見て来た悪魔の血を飲んだものの行く末は、のたうち回ったあげく全身から血を噴き出し、それは悲惨な死に様だった。

「…カレル、どうしているの?」

 キアラの質問には答えず、カレルは彼女を抱えたまま歩いた。ここからキアラの家まではそう遠くない。すぐに家の前に着いたが、家の中の様子がいつもと違うようだった。カレルは構わずドアを開けると、そこにはキアラの母サラ、姉デリアがどこかに出かけようとしている所だった。彼女達はカレルを見て恐怖に引きつったが、その腕に抱えられたキアラを見て、サラがカレルの腕に飛びついた。

「キアラ…! どこにいってたんだいっ」
「ちょっと母さん! 悪魔が…!」

 カレルは動かなかったが、サラの行動にデリアは悲鳴に近い声を上げた。その叫びで我に還ったのか、サラも後ずさりをした。カレルはため息をつくと、そのままキアラの部屋に歩いていった。サラとデリアはカレルの事を警戒しながらもキアラの事が気になるらしく、逃げようとはしない。キアラはカレルがどういうつもりかが分らず、戸惑いからか何も話そうとしなかった。

 キアラの部屋に着くと、カレルはキアラをベッドに寝かせた。そしてそのまま帰ろうと翼を広げる。

「え、ちょっと待って」
「あ?」

 キアラの呼び声に、カレルは振り向いた。けれどキアラにも、どうして呼び止めたのかはわからない。

「……えっと、ありがとう?」
「……。あのさ、そいつらに言っといてくれない? 俺は塩では溶けないって」
「え?」

 キアラがカレルの指差した方を向くと、母と姉が箒やら包丁やらと、大量の塩を手にドアに張り付いていた。そうかと思えば風が吹き、もう一度カレルを見た時にはもう彼は姿を消してしまっていた。

 カレルのいなくなった部屋で、キアラは母と姉を再び見る。キアラには、悪魔が本当にいなくなったのかを確認している二人は、とても滑稽に見えた。

「カレルは…お母さんやお姉ちゃんが思っているような悪魔じゃないわよ」

 キアラの発言に、二人は驚いて目を見合わせる。

「ああああんた、悪魔の名前を…っ」
「あの悪魔の容姿はひとを騙しやすくする為のまやかしなのよ!」

 ヒステリックな叫びと、心のうちを如実に現す二人の目。キアラは悪魔が良い奴だなんて思っていないが、一様に悪い奴だと決めつけている二人とは考え方が違っていた。

「……騙されてなんかない。彼らは、契約には違反しないし」
「契約?」
「あんた、悪魔と契約なんてしたの!?」

 キアラは墓穴を掘った事に気がついたが、もう後の祭りだった。結果的に望み通りになりそうだとはいえ、二人が理解してくれそうもない内容だ。悪魔との契約は、子供を守るためには仕方が無かったのだから、キアラ自身は後悔していないが。


「子供の為よ」
「なんてこと…!」
「悪魔と…」

 サラはあまりの事に失神しそうになり、デリアはキアラのいる場所から後ずさった。

「待って。聞いて。カレルは…」
「聞きたくないわ」

 デリアはぴしゃりとそう言うと、サラを支えて立たせ、キアラの部屋を出た。キアラは一人になった部屋で、自分の腹をゆっくりとさする。

「あなたは、無事に産まれてくれればいいのよ。何も心配いらないからね」

 悪魔の血を飲んでも、キアラの身体はぴんぴんしていた。あの時、死を覚悟した痛みが嘘のように身体が軽い。お腹の痛みもおさまり、これで安心できる。キアラはそう思いを巡らせて、ふぅと息を吐いた。

「……きっと、大変な思いをさせてしまうわね。……ごめんね。でも、私、どうしてもあなたに産まれてきて欲しいの」

 わがままかもしれない。母や姉が、キアラの交わした契約、魂と引き換えに血を貰って飲んだという事を知れば、この子供は二人から嫌われてしまうかもしれない。キアラはまた、ゆっくりとお腹を撫でた。

「……きっと、守るから…一緒に頑張ろうね」

 静かな声だった。少しの希望と、大きな不安。そんな感情が入り交じった声だった。



        -†-†-†-


 キアラが悪魔の血を飲んだ日から丸二日、キアラに陣痛が起こった。薬師達がキアラの部屋にきて、タオルや湯を用意するよう指示を出していた。

「なんで、また出て来てんだ」

 それを木の上に座り、窓を通してみていたカレルは、一言呟いた。キアラの魂が、また彼女の心臓の上に現れていたからだ。いつ復活したのかはわからないが、何やら騒がしかったので、面白そうだとカレルがキアラの部屋を覗いた時にはもう現れていた。ゆらゆらと、強い光を放つ。それが何を示すか、カレルがわからないはずがない。

「……あーぁ」

 カレルはため息をつくと、キアラの部屋の窓を開けて中に入った。面倒な事になる事はわかっていたので、キアラ以外からは自分の事を見えないように結界を張った。

「キアラ」

 苦しみながらも、キアラは目を開けた。カレルを見るとキアラは驚いたが、声を上げたりはしなかった。それどころではないのだろう。

「他の奴には見えねぇよ」

 キアラが周りを見たのでそう言った。キアラは分娩の痛みに辛そうではあったが、どこか嬉しそうだった。カレルはしばらく黙って彼女を観察すると、その手をキアラの心臓の上に置いた。

「あのさ」

 カレルは、その言葉を言うのを一瞬ためらった。どうしてだかは本人にもわからないが、何かが邪魔してスムーズに言葉にならない。

「あんた、もうすぐ死ぬみたいだよ」

 カレルが何を言ったのか、キアラは一瞬理解できていないようだった。きょとんとした顔をして、カレルの瞳を見返す。意味がわかってくると、彼女の表情は青ざめた。

「あぁ、子供は大丈夫なんじゃない?」

 カレルがそう言うと、キアラは安心したような顔をする。それが不可解で、カレルはキアラの周りにも結界を張り、彼女の声が漏れないようにした。

「ねぇ、なんでもうそんな顔してんの? あんたはもうすぐ死ぬんだよ」

 死を目前にした、人間の表情とは違う。キアラのそれは、希望に満ちてさえ見えた。

「……子供の名前、もう決めてあるの。男の子でも女の子でも…ユキノって」
「は?」
「沢山…苦労かけちゃうな…」
「……」
「……カレル?」

 息が苦しそうなのに、キアラはゆっくり話しかけた。汗だくの薬師が、必至にキアラに声をかけるのが聞こえた。

「カレル」
「あ?」
「……守ってくれなくてもいいから…見ててね」
「はぁ?」
「だって、…あなたの魂だもの」
「……」

 キアラの声は、赤ん坊の産声に重なったが、カレルには聞こえていた。喜ぶサラやデリアや薬師達は、キアラの命が消えかけている事に気がついていないようだった。キアラは我が子を抱かせてもらおうと腕を伸ばし、その腕に赤ん坊を乗せて貰った。そして、赤ん坊の額にキスをすると、ゆっくりと息を引き取った。

 女児誕生にわいていたキアラの部屋は、キアラの手から力が抜けていくように、ゆっくりと静まり返った。手から落ちてしまいそうになっていた赤ん坊を、慌てて薬師が抱きかかえる。

「……キアラ?」

 最初に口を開いたのは、デリアだった。薬師が慌ててキアラの脈を確認したが、ただ首を振るだけだった。

 静まり返った室内に、赤ん坊の泣き声だけが響く。

 カレルは結界を解き、その姿を現した。悲鳴を上げる薬師を他所に、彼はゆっくりとした動作で、とても優雅に、キアラの心臓の上空を掴む。すると今までは見えなかった魂が、カレル以外にも見えるようになった。キラキラと輝くそれは、この世のものでは例える事ができない。光を放ち、その存在感は絶大だった。それを、カレルは愛し気にうっとりと見つめる。何かの映画のように、神々しい光景。それと同時に、背筋がぞっとするようなおぞましい光景だった。カレルが光の玉にキスをすると、バサリと音を立てて、カレルの背中に漆黒の羽が生えた。部屋の中には風が吹き、眠っているようなキアラの髪を、さらさらと揺らす。

「待って…! 悪魔、あんたそれをどうするつもり?!」

 気を失いそうになっているサラに対し、デリアは幾分冷静だった。カレルを前から見ていたからという事もあるが、やはり性格自体がキアラと似ているのだろう。デリアの声に、カレルは振り向いたが、にやりと笑っただけで、すぐに手の中にある光に視線を戻した。

「…その子供は、ユキノって名前にしてやんなよ。キアラが、さっき言ってたから」

 カレルの声は冷たい。けれど、甘い響きを持っていた。

「…コレは、契約で俺の自由に出来るんだよね」

 きっと、彼の耳がとんがっていなければ、彼の目が金と蒼のオッドアイでなければ、彼の背に漆黒の羽が生えていなければ、その場にいた誰もが、彼に心を奪われてしまっていただろう。人ではないのだと、その一点だけが、彼女達を踏みとどまらせていた。カレルが笑いかけるだけで、その瞳に吸い込まれてしまいそうだというのに。

「…それは、何なの?」

 デリアは恐る恐る、その問を投げた。きっと、聞かなければ良かったと後悔するだろうことは、彼女自身もわかっていたが、今聞かなければもう一生わかることはないだろうと思ったのだ。

「くす。これ?」

 面白い質問だね、とカレルはくすくす笑った。そして、一通り笑い終わると、その光を口の中に入れる。どんな味がしているのだろうか。恍惚に細まる瞳から、それが好物であることは理解できた。全てを食ってしまってから、カレルはデリアを見た。ゴールドの瞳は照明に輝いて、ブルーの瞳は闇を反射する。

「キアラが望んだことだよ。悪魔の血と引き換えに、彼女は魂を差し出した」

 衝撃に打ちのめされた人間の顔は、なんて素晴らしいんだろう。歪んだ思考は、悪魔である証だろうか。カレルは静まり返る部屋の窓から空へと飛び立った。小さくなるキアラの部屋を、もう振り返ることはない。



        -†-†-†-



「あーもう。煩《うるさ》い」

 力が漲《みなぎ》って、今なら何でも出来そうだった。どこまでも高くと空をいきながら、カレルは耳についた言葉を振り払おうとする。キアラの魂は、今まで食べたどの魂よりも甘美だった。鼻を抜ける甘い匂い。むせ返る程のその香りは、今もまだ、カレルの口腔や鼻腔に残っている。爽快な気分のはずなのに、彼女が最期に言った言葉が耳から離れない。

『ごめんね…守ってあげられなくて…』

 死の間際、キスをする瞬間にキアラが口にしたその言葉は、悲壮と絶望に満ちていた。死を宣告してもなお、子供の事を考え続けたキアラを思えば、それは当然なのかもしれないが、自分の命に関してああも強い彼女の弱り切った台詞が、耳の中で何度も繰り替えし聞こえていた。

「ユキノ…。ユ・キノか」

 人間達の間で古代、使われていた言葉だ。ユは多くの、沢山の、という意味を持つ。そして、キノには二つ意味があった。

「沢山の愛…と、希望?」

 雲を抜けると、そこには星空が広がっていた。いつの間に、夜になっていたのだろうか。時間の感覚を忘れてしまう程、考えていたというのか。瞬く星々は、きっと地上の事になんか興味はないだろう。自分の一生を、その光に託す。何億光年昔のその大きな爆発を見て、地上の生物が勝手に夢を懸けるだけだ。悪魔は、何にも祈ったりしない。その祈りが無駄である事を知っているからだ。ならば、人はそれを知らないのだろうか? 祈りが、大抵の場合無駄である事を、彼らだってきっと知っているはずだ。カレルはそこまで考えて、くすりと笑った。

「おもしろ」

 それでも、祈りを止めない。彼らはなんて夢見がちで、どうしようもなく他人任せな生き物なのだろう。―――そしてなんて、諦めの悪い生き物なのだろうか。

 星は輝いていた。地上の祈りなどおかまい無しに。

 それでも止めない。星の数程の分母でも、時折起きる、奇跡という名の救いを求めて。






   -BEASTBEAT 悪魔の天使-