第三夜 西城千秋



 




 夜も朝も関係なかった



 合図があるまで、出てはいけなかった





 暗くて寒いその場所で



 聞こえてくるのは母の声







 どこか不自然に思いながらも



 自分の身体を抱きしめてただ



 時が過ぎるのを待っていた




◇◆◇第三夜 西城千秋◇◆◇




「―――っ」

(……あ…また夢…)

 このところずっと同じ夢を見ている気がする。起きたらほとんどは忘れてしまうけれど、覚えている夢はどれも幼い頃のものだった。

「おはよう。よく眠れた?」

「っ!? …あ…千秋様…おはようございます…、っ! すみませんっ私ったらこんな見苦しいところを…っ」

 客が起きるより前に、遊女は朝の支度をし、万全に身を整えてから客を起こすのが理想とされていた。水揚げ前、散々教え込まれた作法の一つなのにさっそく失敗してしまった。焦って身支度をしようと起き上がると、千秋に腕をとられ、また褥に戻されてしまう。

「くすくす。まぁ、最初から何でもしようと思わないで。それにまだ朝も早いし大丈夫だよ。身体きついだろうから、ゆっくりしよう」

「……はい…」

 千秋は人懐っこそうな笑みを見せた。明かり障子から漏れる日の光に見た千秋の髪はダークブラウンで、瞳はそれよりもやや薄い。薄い唇に、優しそうな目元。夜は緊張のあまり顔を観察している暇などなかったが、今は幾分冷静に見られる。見れば見る程綺麗に整った千秋と、光を受けて透けるようなその髪や瞳に魅入ってしまう。

「くす、なに?俺の顔になにかある?」

「っ! すみませんっあのっき、綺麗だなぁって思って…」

 男の人に、”綺麗”とは失礼だったかと思ったが、千秋は気にする様子もなく笑っていた。褥の上で、身体を横に倒し頬杖をついている千秋は、やはりどこか風流だった。千秋の周りだけ時間の流れが違うかのように、ついその動作に釘付けにされてしまう。静かな瞳と、やんちゃな物言いはちぐはぐだけれど千秋と言う人間には怖い程によく合っていた。



「千秋様は、お仕事なにをされているのですか?」

 千秋は玲奈の水揚げ代を、桁外れで出したと聞いていた。それはつまり千秋が、または千秋の家が相当な資産家であることを示している。だからこれは、失礼な質問ではないはず。けれど千秋は少し驚いたように目を見開いた。

「あの、すみません…」

 上手く会話を作れない自分に情けなくなってしまって、玲奈は瞳を伏せた。

「え? あぁ、ごめん謝る事ないよ。ちょっと驚いただけだから。俺は西城グループの長男なんだ。だから今はグループの社長代理をしてる」

「…西城グループ…」

 今度は玲奈が驚く番だった。テレビを持つ事を許されない新吉原の中でも、その名前は有名だった。様々な事業を成功させ、ホテル経営やゴルフ場経営など幅広く活躍する西城グループ。その影響力は、政界にまで及ぶといわれている。今をときめくその大グループの社長代理とは、どれほどの地位なのか玲奈には想像も出来ない。

「良かった。知っているみたいだね。そう言えばここにはテレビなんかもないんだっけ。それでは知らなくても仕方がないね」

 千秋は微笑んで玲奈の頬を撫でる。

(…ということは…テレビに出ているということ…?)

 どちらにしても、玲奈の生きる世界とは遥かに違う世界だった。




◆◇◆◇◆




「今日は、無理しないでね」

「…はい。ありがとうございます」

 見送りは、遊女の重大な仕事の一つだった。終わりよければ全て善しではないけれど、気持ちのいい見送りで良い時間を過ごしたという印象を与えられれば、その客がまた自分を揚げてくれるかもしれないからだ。そして、別れ際は褥の上の他で遊女としての技量を試される一つの場でもあった。ここで手練手管を使い、次も来てくれるようにお願いするのだ。

「じゃぁ、また」

 後ろを向いてしまった千秋に、玲奈も何か言わなければと思う。

(どうしよう…行っちゃう…)

『”またすぐに来て下さいね”とか、”次に逢えるひを心待ちにしています”とかよく言うわね』

 姉さん方は他にもいろいろ教えてくれたけれど、どれも玲奈の気持ちを代弁してくれない気がした。使い古しの常套句では、何か違う様な、そんな気持ち。ゆっくりと離れて行く千秋の姿を見つめながら、結局玲奈は何を口にすることもできなかった。




◆◇◆◇◆




(やっぱり…少し身体変…)

 にぶい傷みは仕方がないことだった。日中は身体を休め、宵の口に張り見世に出ようと階下に降りた。

「あぁ、桔梗。あなたは今日と明日は張り見世に出なくていいですよ」

「…え…?」

「西城様の使いの方が、丸二晩分の花代を先ほど届けにいらっしゃいました。ご本人は今日は来れないそうですが、明日はいらっしゃるみたいですよ」

(丸二晩…)

 花代とは、遊女を揚げる時に払う揚げ代のことだ。後を引く事無く去った千秋の後ろ姿に、次はないのかもしれないと思っていた。客を取るのが少し先延ばしになっただけだが、千秋にまた会えるということで、玲奈は心を浮き立たせていた。




◆◇◆◇◆




「よぉ千秋。どうだった? 初めての新吉原は」

 千秋は西城グループの本社社長室で、良く知った声に振り向いた。慌てる秘書を目で制し、出て行くように指示をする。

「あぁ、いいところだな」

「そうだろう? まぁお前にしたら女なんて腐る程居るんだろうけどな。夕霧廊の女はなかなかイイだろ」

 夕霧廊は、常連客の紹介がなければ遊女を揚げる事はできない。信頼の上に信頼を積み重ねて、大見世と呼ばれるまでになったのだ。千秋を夕霧廊に紹介したこの男は、幼い頃からの腐れ縁とでもいうのか、なにかと話があった伊勢学《いせまなぶ》という。今は西城グループの大手取引先の会社の代表を勤めている。若くして重大な業務を任されている者同士、境遇も似通っていたために千秋が心を置いて話ができる数少ない人間の一人だった。

「でもまさか馴染みをつくるとは思ってなかったけどな」

 それは、今までの千秋を知る者ならば当然の意見だった。けれど千秋は「そう?」と軽く流す。

「だってお前女の扱いひどいし」

 千秋の物腰の美しさは、当然ながら今に始まったことではなく、彼は小さい頃から誰彼構わずに人を惹き付けていた。整った顔はいつも柔らかく微笑んでいて、男女問わずに人気があった。しかし人付きの良いその優雅さとは裏腹に、彼の女関係は泥沼もいいところ。来る者は拒まず、去る者は追わない。質たちが悪いのは、千秋にその気がなくても惹き付けられてしまう女の方だった。彼氏が他にいても夫が他にいても、彼にすり寄って行くのだ。隠すでもない千秋のそれは、長年付き合ってきた学をもぞっとさせるものがあった。一度、高校で何人もの女と噂されていた頃、そういう遊び方は止めた方がいいと忠告したことがあったけれど、その時彼はこう答えた。

『みんな理想を追いかけて俺に近づくけど、俺がその理想につきあってやる意味がないだろ? 勝手に来たくせに、俺のせいにして去って行くんだよ』

 それを言った千秋の顔は、いつもと変わらず清々しくて、髪を掻き上げるその仕草は、映画のワンシーンのように優雅だった。どこか螺子の合わない千秋の言動が、どうしてなのか学にはわからなかった。千秋の両親は経営も軌道を登り続け、絵に描いた様な円満な家庭を築いているようだったから。

「まぁ、これを機に落ち着けばいいけど」

 学の漏らしたこの一言に、千秋は何をいうでもなく微笑んでいた。





[2019年 3月 13日改]