[2019年 3月 13日改]
いくら追いかけても追いつかない そいうものが世界にはあることを知った 特別な何かを望んでいたわけではなかった それでもそれは わたしにとっては夢や幻と同じもの 日によって 部屋に満ちる香りが変わる どれが母の香りで どれが…? ◇◆◇第五夜 手練手管◇◆◇ 『あれ、あのこ新造だった? 水揚げされたの?』 『はい。桔梗と申します』 『じゃぁ、今日はあのこを揚げようか』 張り見世に出たその日、まだ宵の口だというのに、玲奈は既に二人の相手を終えていた。 「初めまして。桔梗と申します」 玲奈がにっこりと微笑めば、どの旦那も可愛いと褒めてくれた。千秋以外の人に抱かれるのは初めてで緊張したけれど、彼と練習したことを一生懸命にやった。 「…可愛いよ…いいよ…桔梗…っ」 目をつぶり、感覚を殺す。何人目かの客の相手をするときになると、そういう事を覚えだした。すると思っていたよりも、嫌悪感はわかなかった。困ったこともあった。千秋とするときはあんなに自然に濡れていたのに、他の旦那に触られてもなかなか濡れてくれないのだ。仕方がないので玲奈は部屋にある潤滑剤を予め中に塗っておくようにした。濡れないまま入れられて、身体が辛いのは自分だったから。 「桔梗…愛してると言いなさい…」 「……ぇ…」 「桔梗…っ!」 「あぁっんっ―――っあ、いしてます…島田様、だからっ激しく…っし、ないでください…っんんぁっんっ」 (……あの人は、偽りの愛を語らせようとはしない…) 「もう一度…っ」 「…っんんっ愛していますっあぁっ」 (……――あの人は、……) 誰に抱かれていても、比べてしまう。上流階級の人たちは、みんな彼のような優雅な動きをするのかと思っていた。けれどやはり、あの空気は彼独特のものらしい。 (……彼だったら…) そんなことをいくら思っていても仕方がない。自分はこの新吉原の遊女で、彼はここに自分を買いにきてくれているだけなのだから。 ◆◇◆◇◆ 「菊池様、どうかまたいらしてくださいね…。今夜は本当にありがとうございました」 張り見世に出だしてひと月が経った。この頃は仕事にも慣れて、何人か上客の馴染みも出来た。姉さん方に教わった手練手管にも大分慣れて、どのタイミングで言えばいいのかなども櫻姉さんが細かく指導してくれるおかげで、客が喜んでまた来てくれる事も増えてきていた。 千秋はこのひと月夕霧廊に登楼してはいなかった。仕事が忙しいのだろうことはわかっているが、このまま来なかったらと思うと悲しくなる気持ちは隠せなかった。 『手紙出してみれば』 と櫻姉さんに言われて、一度だけ出した事があるが、高級そうな髪飾りや衣装が届けられただけで本人は来てくれなかった。 最後の客を送り終え、廊の中に入ろうとすると、後ろから声がかかった。 「桔梗、久しぶり」 「…っ!」 待ち望んでいたような声に振り向けば、久しぶりに見る千秋の微笑みがあった。 「ごめんね。仕事が忙しくてなかなか来れなくて。今日はもう見世はあがれないかな」 とっくに深夜を回り、空はうっすらと明け始めていた。 「…千秋様…?」 「ん?」 夢かと思って魅入ってしまった玲奈は、慌てて案内をする。 「ぁ、いえ。大丈夫です。こちらへ」 千秋は案内をしようとする玲奈の肩を抱き寄せて歩き出す。 「ぇと、あの…?」 「部屋に通してくれるんでしょ?」 「はい…」 ◆◇◆◇◆ もう見世の料理を取れる時間ではなかったので、お代を置いて、こっそりとお酒を貰ってきた。その銚子を千秋の持つ杯に傾けながら、久しぶりに聞く千秋の声が聞きたくて、玲奈は一生懸命に話をした。 「…ふ、今日はよく話すね…」 「ぇ…ぁ…」 千秋の人差し指が、玲奈の唇をなぞり、そして中に入って来る。彼を見れば、いつものように褥の上で優雅に頬杖をつきながら、面白そうに玲奈を見つめていた。 「……指、おいしい…? よく嘗めて…俺のものだと思って…」 「…ん……ふ…」 ぴちゃという水音をさせながら、指を丁寧に嘗める。引き抜かれる時にちゅぽんとなった音を聞いて、玲奈は急に恥ずかしくなった。真っ赤になった玲奈の身体を千秋が抱き寄せる。 「……ごめん、今日はする元気ないんだ。だから…」 「………ぇ…?」 よこに倒れたかと思えば、千秋はそのまま動かなくなってしまった。 絡んだ腕がしっかりと玲奈を抱きしめている為に、玲奈も一緒に寝る形になる。 「……千秋様…?」 上を仰げば、年よりも幼い千秋の寝顔が見えた。 (……花代無駄にしてまで…) 自分の花代がどのくらいなのかはわからないが、一ヶ月でかなり上がっているらしいことは聞いていた。引込と言われていたが、まさかここまで人気が出るとは、見世側も嬉しい誤算だったようだ。その花代を払って、自分を抱かずに帰るのかと、玲奈は千秋を見つめる。いつまで見ていても飽きないくらい、千秋の顔は綺麗だと思う。 (……来てくれた…) 本当はもう来てくれないのではと思っていた。それならば仕方がないと思っていた。けれど、久しぶりに感じる彼の体温にも、包まれたときに香る匂いにも、どうしようもなく胸が熱くなった。 ◆◇◆◇◆ 「じゃぁまたね」 (…あ…行っちゃう…) 「……っ」 離れがたくて、玲奈は千秋の洋服の裾を握った。 「ん? なぁに?」 「…っあ……なんでも、ないです…」 「そう? じゃぁね」 千秋以外の誰が相手でも、嬉しがらせの一言や二言言う事ができるのに。彼を前にすると、どうしてもいつものように言葉が出てこなかった。他の誰より、次も来てほしいと、また逢いたいと思っているのに。 (…今日も、何も言えなかった…) 何を言っていいのかわからなくなる。千秋に対してだけは、ありきたりな言葉では気持ちを表しきれない。道の先に遠くなって行く後ろ姿が消えるまで、玲奈はただ彼を見つめていた。
[2019年 3月 13日改]