[2019年 3月 13日改]
奈落の淵に建てられた 魅惑の館 そこには物語に出てくる様な 意地悪な魔女も、獰猛な獣もいなくて ただ毎日享楽に溺れ 情欲に塗れ 館に住まう美しい蝶達に ゆっくりと、ゆっくりと 引き込まれて行くのも気づかない 奈落の入り口に建てられた 劣情を誘う、魅惑の館 ◇◆◇第十二夜 誠◇◆◇ 水揚げの日から、あと二ヶ月程で二年を迎える。禿も玉梓と乙葉《おとは》の二人になった。最近千秋は、いつもが買い切りではないけれど、週に三、四日程も来てくれるようになっていた。 「ねぇ、高岡様ってあんたんとこの客だったっけ?」 櫻に呼び止められ、玲奈は振り向いた。夜見世の始まる前の夕霧廊では、髪を結ったり化粧をしたりする遊女達が、ゆったりとくつろいでいた。 「え…えぇ。そうですけど…」 高岡はしょっちゅう登楼してきていたけれど、そう言えばこの二週間程は来ていなかった。ひどく抱く彼の事を玲奈は好きではなかったから、彼の来ないことで平和だなどと考えていた。 「どうかしたんですか?」 「なんか会社が倒産しそうだって話よ? それなのにここに通って、更に借金増やして馬鹿みたいよねぇ」 「……え…そうだったんですか…」 玲奈にとっては初耳の話だった。登楼したときは、なにかと大金を使っていたように思えたけれど、そんな風に大変な時だったなんて知らなかった。 『…桔梗、僕のことを愛しているんだろう…?』 練っとりと絡み付く様な声を思い出して、身震いした。しかし、それならばもうここには来ないかもしれない。玲奈はいけないことだと思いながらも、こっそりと喜んだ。 ◆◇◆◇◆ しかし玲奈の予想は外れ、その夜、高岡が夕霧廊に登楼してきた。会社が傾き、借金に塗れているということは既に見世側も知る所で、莉堂は登楼を拒否しようとしたようだが、現金で払われては上げないわけに行かなかった。 「あぁ…久しぶりだね、桔梗。寂しかっただろう? ごめんねすぐに来たかったんだけど」 「…た…高岡、様…止めてください…こんな、こと…」 今日はロープを持ってきてはいないようだったけれど、自分のしていたネクタイで玲奈の手を縛り、蹂躙していた。 「…はは…桔梗も聞いているんだろう…? 僕の会社はもうダメなんだ…」 「ん……っっは、…っん…」 玲奈を組み敷きながら、柔肌を唇でなぞる。多くの客を相手にしてきたけれど、高岡のそれは背筋に嫌な寒気を感じる様なものだった。 「…ねぇ、だから、桔梗…」 顔を上げた高岡の瞳は、どこか虚ろで。 「愛しているよ…」 「―――っ!? な、にを…っ」 高岡の手が、玲奈の首に回り、そのままじわじわと絞め始めた。 (…っくるし…っ!) 両手は抗う事を許されず、脚でもがくとも男の身体はびくともしない。 「…っはは、締まるな…」 首を締められる事で、男を銜え込んだ筋肉が締まるのか、高岡は至極幸せそうな顔をしていた。意識が遠のくと思ったら、締めていた手が離される。 「―――っはっあ…けほっだ…れか…っ」 酸素を求めて激しく咳き込みながら、高岡を見る。 「――っ誰かっ誰か助けて! 誰かきて…っん!」 高岡の瞳に狂気を感じた玲奈が声を限りに叫ぶけれど、その口を手で塞がれてしまう。 「…桔梗、困るよ。大丈夫、怖くないよ。後で、僕も一緒に逝ってあげるから…。僕のことを愛していると言ったじゃないか…」 虚ろな瞳の中に、燃える劣情。狂気を宿した高岡は、再び玲奈の首を絞め始める。 (――――っ嫌…っ! こんな…っ!) 抗いきれない。強くて残酷な男の力。 (…こんなところで…私……――死ぬの…?) 「あぁ…桔梗と一つになりながら、死ねるなんて僕は幸せだよ…」 絞めて、少し緩めて、また絞める。高岡は玲奈が死ぬまで何度もその行為を続けるようだった。のど笛を押さえつけられた玲奈の声は、空気をかすかに揺らすだけで音にならない。 (……も…う……――――――) 意識を手放しかけた玲奈は、突然に全身の圧迫感が消え、入ってきた酸素を吸い込んだ。 「――――っげほっけほけほっは、あ…」 「桔梗ちゃんっ! 大丈夫!?」 ネクタイがほどかれ、誰かに抱き寄せられる。周りを見れば、莉堂に取り押さえられた高岡と、自分を抱き起こしてくれている学の姿があった。 「……ぁ……っ」 「怖かったね。もう大丈夫だよ」 学は莉堂に行っていいと合図して、玲奈を抱きしめ直した。身体が震えるのを、抑えることができなかった。ガタガタと震えて涙を流す玲奈の身体を、学は抱きしめてあやしてくれた。 ◆◇◆◇◆ 「悲鳴がね、聞こえたんだよ」 泣き止まない玲奈のことをあやしながら、学は説明した。 「俺は今日この部屋の近くにあがっててさ。で、聞き覚えのある声で助けてって聞こえたから、遣り手さんに無理言って案内して貰ったんだ」 切羽詰まったような悲鳴を聞き流せずに、もし聞き間違いなら自分が今夜の分の花代を桔梗の分も色をつけて出すからと遣り手を説得して、普通ならあり得ないが、客のいる遊女の部屋に案内させた。しかし、そのおかげで桔梗を死なせずに済んで、学も心底安心していた。組み敷かれて首を絞められている桔梗を見て、もし間に合っていなかったらとぞっとした。 この頃は、千秋の女遊びも影を潜め、桔梗の元にしか通っていないようなことを言っていた。やっと、千秋にも普通に愛せる相手ができたのかと、学は密かに喜んでいたのだ。それが、こんなところで死んでもらってはあまりに千秋が可哀相だった。 「………ありがとうございます…」 まだ震えは止まらなかったけれど、なんとかそれだけ口にした。学はそれまでのどこかちゃらけた表情を消し、真剣な顔をして桔梗を見た。 「…あのさぁ…桔梗ちゃんて、身請けされる気ない?」 「……ぇ…」 身請けとは、遊女の身の代金や前借金などを代わって払い、その勤めから身を引かせることを言う。 つまり、自力以外で大門を出る、唯一の方法だった。 「あ、もちろん俺じゃないけどね? 千秋に」 (………身請け…) 「今日みたいなことがまたあったら嫌だし。あいつも、桔梗ちゃんのこと好きだと思うんだよね。だから、桔梗ちゃんがもし良いならあいつに話しておくよ」 (………千秋様に…) 学はまるで自分とのことを説得するように懸命に話していた。けれど、玲奈は首を縦には振れなかった。 「大丈夫だよ。今日のことを話したら、あいつは絶対…」 「…絶対、身請けして頂けると思います」 「…ね? じゃぁ…」 千秋は優しいから、今日のようなことがあったと泣きつけば、身請けでもなんでもしてくれると思う。 「…千秋様は優しいから…でも、その優しさに、縋ってはダメなんです」 玲奈の震えは、いつの間にか止まっていた。 「同情で身請けして頂くなんて、甘え過ぎです。これ以上無いくらい、千秋様には良くしてもらっています。良家のお嬢様と、温かくて幸せな家庭を築く未来を、私が千秋様から取り上げてしまうわけには参りません」 「桔梗ちゃん…」 学の真剣な表情を、玲奈はまっすぐに見つめた。千秋に身請けして貰えるなんて、そんな夢のような話は考えないようにしていた。他の男に抱かれることもなく、千秋だけのものになれたらどんなに幸せかわからない。幸せな未来を想像すればする程、悲しい現実が突きつけられる。 どんなに想っても、報われない恋なんて世の中にはたくさんある。これは、その中の一つなのだと、自分に言い聞かせていた。 「伊勢様、今夜のご恩は一生忘れません。けれど、千秋様にはどうか黙っていて頂けませんか。…同情で、この身を引き取ってもらうなんて厚かましいこと…、どうかおっしゃらないでください…」 学の目に、遊女として生きる桔梗がひどく大きく見えた。さっきまで腕の中で震えていた彼女の印象とは違っていた。 「……そっか…。わかったよ」 お互いを想い合っているはずの二人なのに、噛み合ない歯車に、学はため息をした。桔梗が千秋に想いを寄せていることに、学はもうずっと気づいていた。初めて見た時も思ったけれど、桔梗の千秋を見る目は、何よりもその想いを物語っているように見えた。そしてそれは、千秋にも言えることだった。 側で千秋の心の変化を見てきた。幼少の時、少年時代、青年になってから、最近までずっと。千秋が自分で気づいているかどうかは別にしても、彼は桔梗を気にかけているし、学から見れば、愛しているように見えるのに。 ◆◇◆◇◆ 「伊勢様、本当にありがとうございました」 見送る玲奈の頭をぽんぽんと撫でる。儚い首元にはまだ指の痕が残っているけれど、本人は割に平気そうな顔をしていた。 「うん、じゃぁまたね」 姿が消えるまで見送って、夕霧廊へと戻る。部屋までの廊下を、覚束な気に歩いた。禿によって綺麗に片付いた部屋には、もう狂事の痕跡はない。玲奈は部屋に頽れながら、自分の首を抑えた。殺されるかと思った瞬間、頭に浮かんだのは彼の人だった。 「………千秋様…」 考えないようにしていた。彼がいつの日か自分を本当に愛し、身請けしてくれて。そして自分は彼だけのために着飾って、彼だけに抱かれる生活。 それは叶わなくても仕方ない。せめて、胸につかえて取れないこの想いを、彼がわかってくれたらそれで幸せになれると思う。 けれどきっと、それすらも叶わない。 ―――遊女の言葉に、誠《まこと》無し。
[2019年 3月 13日改]