[2019年 3月 13日改]
どうしてと 一度だけ聞いた事があった その時の 母の顔が忘れられない ―――なんでもないの 口をついた言葉に わたしも驚いてた 悲しい顔を させたくなかった 幸せになって欲しいと思ってた いつでも そう、思ってたよ ◇◆◇第十四夜 渡り舟◇◆◇ 高岡の無理心中未遂事件は、見世の体裁が悪いという理由で警察には通報されず、新吉原への立ち入り禁止というもので片付けられた。夕霧廊の中でも箝口令《かんこうれい》が敷かれ、玲奈には見世から少しお金が渡されただけで、大事にしないように言いつけられた。 「ひっどい話よね。あんたも、黙ってないでもっと大騒ぎしてやれば良かったのに」 見世の対応に腹を立てているのは、被害者である玲奈ではなく、櫻だった。 「櫻姉さん…。でも、もう新吉原には入って来れないんだし…」 「あんた、殺されかけたのよ!? なんでそんな冷静なの!」 憤慨する櫻に、玲奈は苦笑した。 櫻は呆れた、と憤慨した様子のまま部屋を去った。一人きりになった部屋で、玲奈は鏡の前に座った。高岡の指跡は、もううっすらとしか残っていない。あまりに目立つということで、玲奈は莉堂から六日程休みを貰っていた。鏡に映る自分を見ながら、玲奈は考えていた。 どうしてか、怒る気にはなれなかった。高岡は玲奈を終始愛していると言っていた。褥の上での戯れ言を本気にするのは馬鹿だというのは新吉原では常識のようなもので、遊女が使う手練手管はその場限りの嬉しがらせと、割り切ることがこの花街での遊び方だ。 『僕のこと、愛しているんだろう…』 頭の中で、高岡の声が響く。縋る様なその言葉の中に、彼は何を込めていたのだろう。 ―――愛で騙して、愛で惑わして、愛で誘いこんで。 (搾り取ることが、ここに生きる対価…) その身体で男を魅了し、その身代を搾り取ることが、遊女の勤め。借金を背負う遊女たちはそうやって、自分の売値を返して行く。水揚げ前は生活のほとんどを面倒見てもらっているため、売値にはかなり利子が付く。その金額があとどのくらいあるのか、知るのも怖いほどだ。それでもそれを返す為に、自分の身体を売り続ける。 『愛していると、言ったじゃないか』 (――っ……だって……) それが、仕事。それが遊女の生きる道。愛していると、自分から言ったことはなかった。けれど客から求められれば、誰にでも、何度でも言った。 『愛しています』 泣きそうな程胸が痛かったけれど、声が震えないように。 『あなただけを』 自分の声が、自分のものだと思えなかった。高岡はそんな偽りの愛を、愛だと信じたのだろうか。自分だけは特別だと、そう思っていたのだろうか。玲奈はやはり怒る気にはなれなかった。一緒に死のうとする程に、彼は自分を愛していたのかもしれない。もしかしたら偽りの愛と知りながら、それに縋りたかったのかもしれない。 愛という、この世界で一番美しい想いを利用する遊女の自分に、彼を責めることはできないような気がした。 ◆◇◆◇◆ 「桔梗、伊勢様がいらっしゃいましたよ」 六日の休みを終え、張り見世に出る最初の日だった。莉堂の横に立つ学に頭を下げる。 「じゃ、部屋行こっか」 (――え…) 学は、玲奈を揚げた事がなかった。千秋の親友だから、千秋の馴染みである玲奈のことは揚げるつもりはないのだろうと思っていただけに、肩を抱かれ部屋に向かおうとする学に戸惑った。 「だいぶ、指の跡見えなくなったね。そうだと思ってみないとわからないわ」 学は軽く鼻歌を歌いながら軽快に階段を上る。ぱたりと襖を閉めた部屋に学と二人という状況に、玲奈は落ち着かなかった。客として登廊しているなら、学は自分を抱くつもりなのだろうか。 「えっと…伊勢様? あの、お酒でもいかがですか」 部屋に入るなりどかっと肘掛けにもたれて座り込んだ学に問う。 「あぁ、うん。頼もっかな」 落ち着かない気持ちのまま、酒を用意し銚子を傾ける。さすが遊びなれているだけあって、会話に困ることはなかった。どんなにくだらないような内容でも、学が話すととたんに楽しい話になる。千秋の雰囲気とは違うけれど、学の空気は人を楽しませることができる独特のものだった。 「さって、けっこう飲んだし寝るかな〜」 学がよいしょ、と言いながら立ち上がるので、玲奈も慌てて立ち上がった。褥のある部屋の襖を開け、学を通す。 「桔梗ちゃん? 座んないの?」 襖を閉めて、褥の側で立ち尽くしていた玲奈は学の言葉に我に帰った。 (あ…いけない。今は千秋様のご友人ではなくて、私のお客様…) 玲奈は、お客様相手になんて無礼なことをしてしまったのかと反省しながら、学の側に腰を下ろした。学の手が、玲奈に伸びる。玲奈はいつものように目を閉じた。 身体を横たえられて、着物の上から触られるのを感じていた。首元に埋められた学の顔は、ぎりぎり肌に触れない所で止まってその吐息を感じるだけで、それがどこかむず痒かった。 「――――ぶっくすくす…」 「…?」 突然聞こえてきた笑い声に、玲奈は目を開けた。上に被さっていたはずの学は、腹をかかえて座り込んでしまっていた。 「…あの、伊勢様…?」 「あははっごめん、ごめんね…!」 学は目に涙を浮かべながら、呼吸を整えようとしていた。 「…?」 「あはっはーー…。や〜ごめん。桔梗ちゃんのことは抱くつもりないんだけど、なんかすげー緊張してるみたいなのが楽しくって。ごめんごめん、意地悪だった」 「……え?」 意味を解さない玲奈に、学は今日登廊した理由を説明してくれる。 「この前みたいなこと、またあったら嫌だな〜と思ってさ。千秋の来れない日は、俺がなるべく来ようと思うんだよね」 どうやら彼は、例の無理心中事件を気にかけて、玲奈を揚げてくれたらしい。 玲奈は彼の優しさに胸が痛くなった。 「そんな…でも、抱かないって…?」 上がっているのだから、当然揚げ代を払っていることになる。毎回来るつもりなら、その揚げ代は全て無駄になってしまうのだ。 「あぁ、揚げ代? 桔梗ちゃんはそんなこと気にしなくっていいよ〜。(後で千秋に貰うから。)それに、桔梗ちゃん抱いちゃうと千秋と兄弟になっちゃうじゃん」 屈託なく笑う学の笑顔に、玲奈も戸惑いながらも笑みを返した。 「…ありがとうございます」 礼を言う玲奈に、学は頭を撫でてくれた。 ◆◇◆◇◆ 「桔梗ちゃんさ、客とする時いつもああなの?」 学はそれから、言った通り千秋が登廊しない日は必ずと言っていい程夕霧廊にきていた。 「……え…?」 抱きはしないと言っても、夜具は一組しかないので、同じ布団の中に横になる。客だけど、客じゃない、学がどういう立ち位置になるのか、玲奈には計りかねていた。水揚げ以来、多くの男を見てきたけれど、一度も抱かれないのにこうして登廊してくる学のことが不思議で仕方がなかった。 「最初にちょっとからかったでしょ。あの時さぁ、桔梗ちゃんずっと目瞑ってたでしょ?」 「ぁ…」 感覚を殺す為に、目を瞑る事はもう習慣のようになっていた。おかしくならないように、声を出したり身体を震わせたりして、その行為に感じるふりをしていた。どう返していいのかわからずに詰まっていると、学が更に質問してきた。 「…千秋にも?」 「……」 玲奈は今度こそ言葉に詰まってしまった。学の表情からは、その心のうちを推し量る事はできない。心の奥で燻っていた想いを、打ち明けてみてもいいのだろうか。 「………いえ…」 踏み出していいのか分からず、玲奈はそれだけ口にした。 「…千秋だけは、特別?」 「……」 確信を問う学に、玲奈は狼狽えた。誰にも言わず、胸の奥に眠るはずだった恋心。客ではくて、でも客で、命の恩人で、千秋の親友で。そんな学にこの想いを打ち明けたら、どうなるのか。 「……伊勢様、すみません。今のことは忘れてください」 やはり、許される事ではない。友人である学に言えば、千秋に伝わってしまい、彼に迷惑がかかるかもしれない。遊女などに本気になられたら、興も冷めてしまうというもの。 「…やっぱり、身請けされるつもりはないの?」 「……」 重ねて問う学に微笑んだ。 「伊勢様のお心遣い、本当に嬉しいです。けれど先日も申し上げたように、千秋様のご迷惑にはなりたくないのです」 「……わかった。ごめんねしつこくって」 ダメだわ〜と笑う学を見て、また重くなったような気持ちに気づかないふりをした。 ◆◇◆◇◆ (なるほどな〜) 夕霧廊からの帰り道、大門から続く道の向こうの、駐車場を目指して歩く。自分の愛車に乗り込みながら、どうやれば上手く行くかを考えていた。学としては、なんとしても桔梗を千秋に身請けさせたい。 (…まぁ別に、桔梗ちゃんのためじゃないけど) 学の中では、桔梗よりも千秋の比重が高い。桔梗のためではなく、千秋のために、桔梗を千秋に身請けさせたかった。たった一人、千秋の心を動かしたのは桔梗という遊女だった。何が原因なのか掴めないけれど、荒んでいた千秋の心を温める事ができるのは、もう彼女しかいないだろうと思った。 (う〜ん…どうすっかな〜…) 大歓楽街のネオンを通り過ぎ、大都の中心へ車を向ける。向かったのは、千秋の住む家だった。
[2019年 3月 13日改]