第十五夜 哀情《あいじょう》




 





 いくら空に祈っても



 救いの手があるでもないし





 いくら遠くを見つめても



 この深い霧が晴れるあてもなくて





 それでもそれをやめられないのは



 心のどこかで捨てられないから







 黄昏《たそがれ》に染まる街を憂い



 曙《あけぼの》に輝く街を羨む





 いつか



 きっと





 日陰を生きるわたしたちにも





 光に溢れる広い空に



 愛される日が来るはずだから




◇◆◇第十五夜 哀情◇◆◇




 会社に泊まる事もあったし、夕霧廊に泊まることも多かった千秋が、自分の家に帰ってくるのは久しぶりだった。カチャと渇いた音を響かせ、鍵を開ける。誰もいない部屋のドアを開けても、迎えてくれる声はない。実家にいれば父や母がパタパタと迎えてくれたが、いつからかそれが鬱陶しくなった。紛れもない愛情を向けられればそれだけ、その愛が贋物のような気がしている自分に嫌気がさした。電気も付けず、月の明かりを頼りに部屋までの廊下を歩く。リビングの手前まで来た時、めったに鳴る事の無いチャイム音が響いた。







「…学か。入って良いよ」

『はいは〜い』

 インターホンに映った人物にため息をもらしながら、久しぶりに顔を見せた友人を中に通す。勝手知ったる我が家の如く、学はリビングまでなんのためらいもなく入ってきた。仕方が無いと、客用のグラスを出し、さっそくソファにどさと座る学に渡しワインを出す。

「いいワインなんじゃねぇ? でも、今日は車なんだわ」

「そう? 残念。貰ったんだ」

 つまみもあったろうかと冷蔵庫を見るけれど、生憎食べられそうなものは入ってなくて、風邪薬やら栄養ドリンクやらが入っているだけだった。

「あ〜つまみないわ」

「そう思って買ってきました〜! 俺はノンアルコールビールね」

 つまみ持参というところが、千秋のことをよくわかっている。千秋は苦笑しながら学の座る四人掛けソファの斜めにある独り掛けのソファに腰を降ろした。



「そういえば、桔梗ちゃんて本当に可愛いな」

 しばらくの談笑の後、学は今日来た目的を密かに話題にする。ワインの瓶はもう二本空けられ、千秋は三本目を開けているところだった。

「…桔梗?」

「最近俺も揚げてるんだけどさ。お前が気に入るって理由もわかるわ」

 何気なく観察していた千秋の動きは、けれど学が期待していたような反応を見せはしなかった。三本目のワインのコルクがポンと小気味良い音を出し、血色の液体を空になったグラスへ注ぐ。どこかのソムリエよろしく注ぐ姿は、男の学でも一瞬目を奪われる。

「ははっそう? それは良かった」

 可愛くない、と思いながらも、話を続ける。鋭い千秋に怪しまれないようにするのは、学には相当に頭を働かせないとできない芸だった。



 一通り話しても、特に機嫌が悪くなるということもなく、成果無しとため息を漏らしたくなる気持ちを抑えながら、学は立ち上がった。

「泊まって行けば?」

「いや、今日はいいや」

 計画が失敗したらしいことに多少がっかりしながらも、そう簡単に事が上手くいくはずも無かったかと、短絡な自分の思考に苦笑した。桔梗の話を出して千秋を妬かせ、それを盾に見受けすることを勧める予定だったのだ。

「じゃぁな〜」

 見送る千秋に軽く手を振って、学は千秋の家を出た。

(どうしよっかな〜)

 とりあえず、効果のありそうなことなら何でも試すつもりだった。次の手を考えながら、学はアクセルを踏んだ。




◆◇◆◇◆




「最近、あんたずいぶん頑張ってるわね。この分なら来月くらいには太夫御職狙えるんじゃない?」

「え…御職ですか? いえ…私はそんな…」

 遊女の憧れとされている太夫御職は、一般にはその見世で一番稼ぎのいい遊女に贈られる肩書きだ。一度御職の名を取れば、その遊女の揚げ代が更に色付くことになる。最近では確かに、上客がこぞって登廊するようになり、玲奈は一日に四人程も相手をする時もあった。玲奈にはその理由がわからなかったけれど、櫻に言わせれば女の色気が増したということだった。

「女を綺麗にするのは、どの時代でもおんなじなのよ」

 あれだけ忠告したのに、とため息をついて去って行く櫻の後ろ姿を見つめながら、その言葉の意味を考える。答えに行き着くのに、そう時間はかからなかった。そんなにあからさまに態度に出ているのかと焦ったけれど、そうであるならば莉堂にでも注意されるだろうと思う。きっと櫻はよく玲奈のことを見ていてくれるからわかるのだ。

(恋で、女は綺麗になる…)

 そんな言葉をどこかで聞いたことがあった。

(恋…)

「桔梗姉さん、伊勢様がいらっしゃいました」

 物思いにふけっていた玲奈は、乙葉の言葉で我に帰る。毎日必ず、学か千秋が登廊していた。客の予約がつまってしまって、買い切ることが難しくなった最近は、他の客の後に千秋に逢うということが増えた。千秋と学の登廊がかぶるという事は無かったので、今日は学がきたなら千秋の登廊はないのだろうと、少しがっかりする気持ちをしかりつける。



「いらっしゃいませ。伊勢様、こちらへどうぞ」

 毎日来る千秋か学のために、本部屋はいつでも空けているようにしていた。これは当然千秋と学が相当に、上客の中でも格の高いということもあるが、例の事件の後でまた玲奈になにかあることのないように、本部屋よりも回し部屋や割部屋にした方が安全だという莉堂の気遣いもあった。なんだかんだと、玲奈のことを気にかけてくれているらしい。

「桔梗ちゃん、今日も可愛い」

 挨拶代わりに褒めるあたり、やはり学と千秋は似ているところがあると思う。

「ありがとうございます。伊勢様も素敵ですよ」

 初めのうちこそ戸惑っていたそんな会話も、上手にかわすようになった玲奈に、学は感心した。



「あ、そうそう。あんまり聞きたくないかもしれないけどさぁ、桔梗ちゃんには言っといた方がいいかと思って」

 小一時間程の会話の後、思い出したように学が話を切り出した。

「高岡が行方不明になっているんだよね。あの事件のあと、ずっと見張らせてたんだけど。新吉原に来る事はないかもしれないけど、十分気をつけてね」

「……高岡様が…」

 一ヶ月程前の、あの事件が甦る。玲奈の中ではやはり、消えてしまう様なものでは無くて、鮮明なその光景は思い出すだけで背筋が冷たくなった。

「…えっと…見張らせていた…?」

「あ。……まぁ、一応ね」

 そんなことまでして貰っていたのかと、改めて学への感謝と申し訳ない気持ちがわきあがった。学が玲奈にそこまでしてくれる理由はわからないけれど、それを聞いても学ははぐらかしてばかりで明確に答えてくれた事はなかった。

「とにかく一人で歩いたりしないようにね」

 新吉原の女たちは、大門から出なければその塀に囲まれた新吉原内を出歩くことは許されていた。中にあるのは茶屋だったり、簪や小物を売る店などしか無かったけれど、遊女にとっては十分だった。

「はい。…ありがとうございます」

 千秋に対する想いとは違うけれど、学のことは本当のお兄さんのように好きになっていた。素直に好意に甘えることにして、玲奈はにっこりと微笑んだ。




◆◇◆◇◆




「俺に会えないと寂しいでしょ?」

「ふふ。本当に、次もすぐ来て下さいね」

 学を送るために、門に出ようとしたところだった。

「桔梗、西城様がいらしてますよ」

(…え…?)

 莉堂に呼び止められその方向を振り返れば、丁度来たところだったのか莉堂の側に立つ千秋が見えた。客同士がはち会わせる事は本当は御法度になっていたけれど、千秋と学が友人であることは莉堂も当然知っているだろうから、それで構わないと思ったのかもしれない。

「…学?」

「よ〜千秋。明日の会議に遅れんなよ。じゃぁね、桔梗ちゃん」

 楽しそうに笑いながら、玲奈の頬にキスをして学は帰って行った。初めて登廊した時以来、そんなことをされたことは無かったので、突然のことに驚いて玲奈は真っ赤になってしまった。

「……桔梗、行こう?」

「え…っあ、はいっ」

 玲奈を待つ事無く、歩き出した千秋に焦って追いつこうとする。

(…千秋様…いつもと少し様子が違う…?)

 前を歩く千秋の表情は伺う事はできないけれど、その背中がどこか冷たいような気がした。

 





 襖を開け、後ろにいた玲奈の腕を引っ張って中に入れる。

(…っえ…)

「あの、…千秋様…?」

 いつに無いその強引な動作の意味がわからずに、玲奈は戸惑っていた。千秋は玲奈を抱き上げて、褥に乱暴に横たえさせる。

「…っあ…っ! ん…っ」

 背中が褥についたかと思えば、千秋の唇が玲奈のそれを塞いだ。

「んん…っん……!」

 いつもするキスよりも、ずっと息苦しい。

 貪るように奪う唇は熱くて、身体を這う大きな手は性急に求めてきているようだった。

「…っんっい、た…っ」

 千秋の歯が、胸を齧る。

 そのまま引っ張られると、しびれる様な痛みが走った。

「…んん…あ…っち、あき…様…っ待って下さい…っんっ」

 いつも優しい千秋が、今日は乱暴に自分を抱く。顔を見たかったけれど、千秋は玲奈のほうに顔を見せてくれなかった。

(…何か…怒らせてしまったのかな…)

 いつか、自分に溺れてほしいと願ったことがあった。余裕の表情を崩す事無く自分を抱く千秋のことを、どうしようもない劣情で乱してみたいと思った夜があった。けれど、今自分を抱いている千秋は余裕もなく抱いているように見えるのに、その時に想像していたような幸福な気持ちになれない。

「…桔梗、ダメでしょ…? 客なんだから、もっと喜ばせなきゃ」

「…っ! あ…ん…っぁ…っ!」

 千秋との行為なのに、いつもの様に身体が濡れなかった。まだ少し湿っただけのその秘孔に、千秋のものが侵入する。

「ひゃん…っ―――っん…っ」

 後ろから腰を支えられて激しく揺さぶられる。奥に当る度に漏れる嬌声は涙まじりだったけれど、千秋は構わずに続けた。

「……桔梗、俺にも言って?」

(……?)

 絶える事無く喘ぎ続けて、まともに話す事は出来ない。

「…っあぁ…っ」

 腕をひかれ、繋がったままくるりと仰向きにされた。思わぬ所を突かれて、玲奈はまた大きく声をあげる。

「……ねぇ、桔梗…俺にも…嬉しがらせ、言って…」

「――――っ!」

 千秋の一言に、玲奈は驚きを隠せなかった。

(……え……?)

 自分の耳を疑いたくなるほどの言葉に、胸がどくどくと脈打つ。

「…俺聞いた事ないよ…? 桔梗が、愛してるとか言うところ…寂しかったとか、また来てとか…」

(……それは…)

 それは、玲奈が意図的に千秋には言っていなかったから。言えなかったから。言いたくなかったから。他の客を相手にしたら、口から自然に出て来るまでになった手管も、千秋相手にはどうしても使いたくなかった。玲奈の気持ちを、そんな言葉と一緒にして欲しくなかった。

「……桔梗…学には、…あんな可愛く言ってたでしょう…?」

「……んっあぁ…っ」

(…なんで……)

 玲奈には、千秋がどうして突然そんなことを言うのかわからなかった。千秋と学が登廊するときはいつでも違う日で、当然打ち合わせてきているのだと思っていた。ならば、玲奈のことを学が抱いていないということも千秋は知っているはず。それなのに学に嫉妬ということもないだろう。そもそも、千秋が玲奈の客に嫉妬などするわけがないと思う。

「……そんなに、言うの嫌なの…? …もしかして、俺って嫌われてる?」

 冷たく見つめられていた千秋の表情が、少し歪む。

「――っ!? そ、んなこと…っ! 絶対、ないです…っ」

 わけのわからない状況に頭は働かないけれど、千秋の事を嫌いだなんてありえない。一生懸命否定するけれど、苦し気に歪んだ表情は変わらなかった。

「…じゃぁ、なんで泣くの…」

(……え……)

 千秋に頬を拭われるまで、玲奈は自分が泣いていることに気がつかなかった。







 心臓がうるさかった。壊れてしまったかのように、鼓動が耳に響く。震える唇を少し濡らして、玲奈はそれを口にした。

「……千秋様…が、好きです…」

 見つめられている事に絶えきれず、目を背けた。何度も、何度も。心の中で何度も唱えた。伝えられない、伝えちゃいけない言葉。

「…千秋様だけ……」

 千秋の反応がないことが気になって顔をあげたけれど、千秋はさっきよりもずっと悲痛な顔をしていた。

「……千秋様…? …っ! んんっあんっ」

 千秋に手を伸ばそうとすると、その手を掴まれ、上にまとめあげられる。そしてさっきのようにまた、激しく中を犯された。

「……嬉しいよ…。手管とわかっていても。…ねぇ、もっと言って…?」

「―――っ!!」

 激しく主張していた心臓の音も、自分の喘ぎ声も、何も聞こえなくなった。静寂の中、一人闇に落とされたような錯覚を覚える。揺さぶられる快感も、今は切なくなるだけだった。





 ―――だから――――だったら。





 どうせわかってもらえないのなら、言いたくはないのに。本当に想っていることを伝えられないのなら、他の手管と同じに聞こえる様な言葉なら、口に出したくなかったのに。



「……っ好きです…好き…っ千秋様…だけ…っ」

 



 初めて、千秋に抱かれることを苦痛に感じた。初めて、この行為が早く終わればと願った。



 初めて、心から。



 遊女である自分の身の上を、心から恨んだ。







[2019年 3月 13日改]