[2019年 3月 13日改]
人間の王子に恋をした 海の中のお姫様 魔法で声を奪われながらも 彼の心は彼女にあった けれど彼女は気づかずに 苦しい程の想いと共に 冷たい海の中へ、泡沫と消える もしも魔法が溶けて その美しい声が戻ったなら 物語はどうなっていたんだろう 声を奪われる事はないけれど どうしようもない呪いを背負う いつか呪いが溶けて 物語が違う道を歩むなら 結末はきっと、もっと―――。 ◇◆◇第十六夜 逡巡の時◇◆◇ 「どうでした?」 『……これがあのこの為になるとは思えませんけど。西城様は相当苛立っていらっしゃいましたよ』 電話口の声を聞いて、学はにやと笑う。今日千秋とはちあわせたのは、当然学が計ったことだった。千秋の登廊する時間を莉堂に聞き、わざとその時間を狙って帰る。莉堂に桔梗を引き止めさせたのも全て学の頼みこんだことだった。 「あなたも、桔梗ちゃんには幸せになって欲しいと思うでしょう」 『…まぁ』 莉堂は桔梗が売られてきた時からずっとその面倒を見てきたらしい。他の子よりも随分早い歳で売られてきたという桔梗のことを、ずっと見てきたのであれば情も移ってしまうというもの。もちろん他の遊女のこともよく面倒を見ているが、桔梗のことはいつも気にかけていたようだった。 「まぁ、当人に任せる他はないんですけどね。結局のところ」 電話の奥でも、小さくため息をつく音が聞こえる。軽く別れを言って受話器を置いた。 ◆◇◆◇◆ 泣きながら、好きだと言う。初めにその言葉を言った時に微かに震えていた身体は、今ではもうおさまっているようだった。瞳から溢れる雫は彼女の髪を濡らし、紅い褥に赤黒いしみをつくっていく。 「…っ好きです…っ…逢えないと…寂しくて…ん、あぁ…っ」 「……うん」 いつも抱いていた彼女はこんな風な女だったろうか。全身で彼を誘って仕方が無かった色が、今は失われていた。 「ねぇ、どうやって…攻められるのが好きなの…?」 もうずっと、何時間もこうしているようだった。使い過ぎの肉壁は熱を持って、少し腫れているような気もする。可哀相なことをしているという自覚はあった。元々体力も無いのだろう桔梗は、もう喘ぐことも辛そうだ。けれど、止めてあげる事ができない。 「…っんっぁ…っ!」 「桔梗…目…開けて…」 どこか違和感があったのは目が閉じていたからだろうかと、そう命じた。うっすらと開けられた瞳を見て、胸の奥が痛んだ。いつも嬉しそうに向けられていた彼女の黒水晶に映るのは、冷たく流れる涙で歪む、自分の顔だった。輝きを無くしたその瞳が、余計に虚しさを煽って行く。 「……ち、…あき様…。わたし…好き…なんです…」 麻薬のように、脳を侵す。自分で言わせたくせに、好きだと桔梗の口から言われると心臓を刺される様な痛みを感じた。 「……そう」 返す度に、本当に悲しそうな顔をする。つい騙されてしまいそうになる気持ちを、残った理性で押さえ込んだ。 「っんっあ…っ! んぁ…っ!ん―――っ」 自分の放った白濁に汚れた秘孔から自身を引き抜き、気を失ってしまった桔梗に布団をかぶせる。どんなに乱暴に抱いても、何度その身体を求めても、彼女が嫌だということは無かった。それが遊女の仕事なのだと、千秋は改めて思い知った。それにどんなに苦痛を伴うのかなど、雄である千秋にわかるはずもない。いつか見た華奢な手首に赤々と残っていた傷も、彼女に抗う権利はない。質が悪いのは、表面に見える傷だけが傷じゃないということ。彼女の心に、どれだけの癒えない傷があるのか。 (かっこ悪い…。嫉妬で、傷を抉るなんて) 彼女の放つ言葉が、麻薬のように耳に馴染むのとは裏腹に、無理矢理言わせてしまっている自分に嫌悪を感じた。 誰にでも、何度でも。その言葉に意味なんかない。千秋は、人生でおそらく初めて、自分が何をどうしたいのかわからなかった。 ◆◇◆◇◆ 「……ん……」 身体が重くて、起きるのが億劫だった。けれどはっきりしてきた思考の中、千秋が登廊していたのだったと思い出し、慌てて彼の姿を探した。 (……あ…いた…) 着崩した浴衣は胸元がはだけ、緩くあぐらをかく様な形の脚の片脚が立てられ、その上に何気なく置かれた手がくるくると扇子を回している。窓辺にもたれて外を眺める姿は、切り取ったら絵はがきにでもなりそうな趣のある情景を魅せていた。 「……千秋様…」 「ん? 起きたの」 何に怒っていたのかはわからないが、もう彼は苛立ってはいないようだった。そのことに少し安心しながら、玲奈は起きようとする。 「…っぁ…」 手に力を入れようとするけれど、かたかたと震えて力が出ない。そんな様子を見ていた千秋が玲奈の側によって抱き上げてくれる。 「…あ…すみません…」 千秋の膝の上に乗りながら、玲奈は少し緊張していた。 「………うん。ごめんね。今日は酷くしすぎちゃったね」 そう言って頭を撫でる千秋は玲奈の知る千秋で、玲奈は彼の胸に頬を擦り寄せて甘えた。 「くすくす、…疲れた?」 千秋の笑い声が、頬を当てている肌からと、反対の耳から二重に聞こえる。 「………いえ…」 玲奈が言った嘘は、千秋を更に笑わせる。いつもの千秋に戻ったことに安堵していた。 ◆◇◆◇◆ また少し眠った玲奈は、千秋が帰る支度をしている音で目を覚ました。 「あ、起こしちゃった? そっと帰ろうとしたんだけど…」 「…もう、お帰りになるんですか…?」 「うん。明日の朝に会議があるからね」 そう言えば帰り際に学もそんなことを言っていたと思い出し、玲奈は起きだして千秋の帰り支度を手伝った。浴衣を着る姿は役者も顔負けという程の千秋は、スーツを着れば途端に洋風の紳士になる。和と洋の両方を、これほど鮮やかに着こなしてしまう人はそれほど多くはないだろう。立ち姿に見惚れながら、夕霧廊の門の外まで送りに出た。 「……あの、千秋様…、また…」 「…あぁ、良いよ言わなくて」 千秋は微笑んで、玲奈の口元に人差し指を当てる。 「今日は本当にごめんね」 それだけ言って、千秋は歩き出してしまう。 「――――っ待って下さい!」 「…桔梗?」 そのまま、何も言わずに帰してしまうのが嫌だった。玲奈は千秋の腕に手を置いて彼を引き止めた。 「……また、次もいらしてくださいね…」 千秋は驚いた様子だったけれど、すぐに笑顔で頭を撫でてくれる。今度こそ千秋が帰ろうとしたとき、玲奈の後ろ側、夕霧廊の門の奥の曲がり角から出てきた影があった。 「桔梗…! その男はなんなんだ!?」 「!?」 それは、もう聞く事はないだろうと思っていた声だった。振り返った玲奈は、震える手にナイフを持ち、こちらに迫り寄る高岡の姿を見た。 「――っ! 高岡様…!」 高岡はいくらか痩せて、着ている物も玲奈の記憶の中のものよりも随分見窄らしいものだったけれど、その顔を見間違えるはずもない。瞳孔が開き、うつろな表情と狂気に満ちた空気。人目で正気ではないとわかったが、徐々に近づいて来る彼から逃げたくても、玲奈の脚は言う事を聞いてくれなかった。 「…彼は桔梗の客?」 「……ぁ…」 手に、嫌な汗が滲んだ。いくら普段平気に振る舞っていても、彼を前にするとその時の恐怖が再び玲奈を襲う。首を絞められているわけでもないのに、あの時のように、苦しくて痛い。 「……僕を、愛してるって言ったよね…」 「……っ! ちが…っ」 ぶんぶんと首を振って否定する。 ―――請われたから…それが仕事だから、言っただけ。 高岡を本当に愛していたわけじゃない。震える手に握られた刃先は、まっすぐに玲奈に向けられていた。新吉原へは入れないように手配されているはずの高岡がどうしてここにいるのかはわからないが、その目的は明らかだった。 「…桔梗の、間夫じゃないよね?」 千秋の言葉は、もう完全に聞こえていなかった。高岡は千秋が見えていないかの様に、玲奈に詰め寄っていた。ショック状態に陥った玲奈は、逃げる事もできずにその場所に膝をつく。冷たく光る銀の刃が、玲奈の方に勢いをつけて迫ってきた。自分が引力でも持っているかのように、まっすぐ向かって来るナイフを見つめながら、玲奈は固まっていた。 「誰だお前は!? 離せよっ桔梗…!」 玲奈が自分を取り戻したとき、迫っていたナイフは高岡の手を離れ、側に転がっていた。視線をあげると、高岡は千秋に地面にねじ伏せられていた。 「…桔梗、大丈夫? 悪いけど、遣り手さん呼んでもらえる?」 千秋は玲奈のことを気遣って、優しく声をかけてくれる。かなり長身の高岡は千秋よりも背が高く、身体付きも痩せたとはいえ割にがっちりとしていると思うのだが、千秋はそんな高岡を有無を言わせず押さえつけていた。 「……桔梗?」 「…あ、はい…っ」 弾かれたように立って、莉堂を呼ぶ。 それからはあっという間だった。千秋が携帯電話で呼んだ警察に連れられ、高岡は新吉原を去った。前回の心中未遂も、殺人未遂事件として今回の銃刀法違反及び殺人未遂と一緒に後日詳しく話を聞かれることになった。玲奈は見世の者や警察に囲まれ、何がなんだかわからないながらも、側に千秋がずっといてくれた事でいくらか冷静に話す事ができていたと思う。そして深夜も回ろうかという頃、やっとお開きになった。 「…あ…では、千秋様…今夜は本当に…」 随分遅くなってしまったことを申し訳なく思いながら、玲奈は千秋を見上げた。 「…桔梗、大丈夫…?」 「…え…」 多くのことが起こりすぎて、気が張りっぱなしだったけれど、千秋にそう言われた途端緊張の糸が切れたかのように、涙がにじんできた。溢れて流れた涙を、千秋の指が拭う。 「…止めようかな」 千秋は玲奈のことを抱き上げて、もう一度夕霧廊の部屋の中へと向かう。 「…あの…千秋様…?」 「帰るの止める。…ちょっと、話もしたいし」 玲奈を抱く千秋の手に、少し力が入った。
[2019年 3月 13日改]