[2019年 3月 13日改]
霧の中をただ歩いて 深い森を彷徨い 果てしなく続く道の その先にあるなにかに期待しながら どうしようもない絶望を感じて 渇いた心を潤す水を求め 切り裂かれた傷を癒やす薬を求めた 求め続ければ いつか光が差し込むの どこに伸ばせば良いのかもわからない 暗い暗いその場所で この手を伸ばすかどうかを 決めるのは自分だった ◇◆◇第十八夜 夢心地◇◆◇ 「本当に…お前にはやられたな」 にこやかに車窓の外を見る学に視線を送れば、その意図を理解しながらも悪びれない学は苦笑を返した。 「まぁまぁ。そんな喜ばれちゃうと照れるなぁ」 桔梗に身請けの話を承諾させた後、少し仮眠を取った千秋は朝の支度に追われる莉堂を引き止め、その旨を伝えた。少し驚いた表情をした後、「では、そのように準備致します」と返した莉堂に満足して、朝から予定されていた会議に出席する為にこうして車を走らせている。新吉原の大門を過ぎた頃、計ったようにかかってきた携帯で呼ばれ、途中で学を拾い、アクセルを踏んだ。 「キューピットしてやっただけじゃん?」 言いたい事は沢山あったが、学のお気楽な表情を見ていると全てどうでもいいような気がして来る。 「……はぁ」 千秋はわざと声をのせてため息を吐いて、また学を苦笑させた。 「…学。礼を言っとくよ」 「…は?」 会議の行われるオフィスビルの地下駐車場から上がるエレベーターを待っているときだった。前にいた学は、千秋の声に振り向きざま素っ頓狂な声をあげてしまう。 「桔梗を助けてくれてありがとう」 「……」 放心している学を追い越して、千秋はエレベーターに乗り込む。 「学? 乗らないのか」 「あ、あぁ」 急いで乗り込んで、ちらと千秋を盗み見る。 (…うわ〜…、千秋のこんな顔見た事ないんですけど…) 二十年近く友人を勤めながら、こんな表情を見た事はない。 『…あなたの思惑が成功したようですよ』 今朝、携帯に告げられたその言葉に、学自身が驚いていた。まさかこんなに早く効果が現れるとは思っていなかったのだ。長期戦を覚悟の上で、色々な作戦を考えて行こうとしていた。電話を切った後、何を考えるよりも早く千秋に連絡した。朝の会議に向かうという千秋に迎えに来させ、それを待つ間どうやって聞き出そうかを考えていた。 『何にやけてんだよ? 気持ち悪い』 助手席に乗り込みながら、そんなことを言われた。気持ちが顔に出てしまったかと慌てて口元をしめ、自然に会話をその話へもっていこうと頭をひねる。 『…そういえば、桔梗を身請けする事にしたから』 聞き出すまでもなく、千秋は自ら口にした。 『…あぁ、それと、学がそんなに友人思いとは知らなかったよ』 付け足された言葉に吹き出しそうになりながらも、本当に計画が上手く言ったことに素直に歓びを感じた。 『あんまり遅いと本当に食っちゃおうかと思ったぜ』 いつものように軽口を叩きながら、窓の外に流れる朝の風景を見ていた。 ありがとうと言った千秋は、学が今まで見たことの無い程清々しい顔をしていた。何を考えているのかわからない千秋でも、今は幸せを感じているんじゃないかと思った。 ◆◇◆◇◆ 「桔梗、これからは張り見世に出なくていいですよ」 身請けするためには各種書類を作らなければならないらしく、すぐに大門を出られるというわけではない。予約が詰まっていたはずと莉堂に聞けば、そういう客のフォローの分も、千秋が前もって払っていったのだという。そうでなくても身請けにはかなりの金額がいるはずで、申し訳なく思う気持ちももちろんあったけれど、どちらかと言うと、もう千秋以外の男に抱かれなくてもいいのだという嬉しさが勝っているようだった。 部屋に戻った玲奈は窓を開け、庭の向こうに見える大門を眺めた。十五年近くをこの閉鎖された新吉原で過ごしてきた玲奈にとっては、新吉原が世界で、外のことはやって来る客から少し話を聞き、想像するだけだった。年季の明ける日まで働き続けるはずだった夕霧廊から、こんなに早く出る事になるなんてと、思いを巡らせる。大門を出られるどころか、玲奈は好きな人に身請けしてもらえるのだ。頑に頭から追い出していたその幸福な夢は、今はすぐ側で微笑んでいた。 「…幸せ……。私、本当に千秋様に…」 千秋が登廊してくれるだけで幸せだと思っていたのに、その千秋に身請けして貰えるなんて、これ以上に幸せなことはないように思う。 「……早く逢いたいな…」 別れ際、今日は来れるかわからないと言っていた。黄昏に染まる新吉原は人もまだまばらで、大門も提灯を灯していなかった。夏も終盤にさしかかり、夕暮れの少しひんやりとした空気が頬を撫でる。 「…何を考えているの?」 「…!」 物思いに沈む玲奈を、後ろから抱きすくめる腕。声を聞くだけで、彼のものだとわかる。いつもならば莉堂か禿に呼ばれ、玲奈は門まで千秋を迎えに出ていた。客を鉢合わせさせない為の習慣のようなものだったけれど、他の客が上がっていることがない今の玲奈の部屋は、千秋であれば出入り自由になっていた。胸の少し上に、玲奈を包み込むように組まれた腕にそっと手を添えて、千秋の体温を感じる。 「…もちろん、千秋様のことです…」 本当のことだったけれど、言った途端に赤面してしまう。他の客相手にはどんなことだって言えたのに、想いの通じた今でさえ、もしかしたら通じる前よりももっと、千秋に対して気持ちを口に出す事に勇気がいた。 「…今日は、いらっしゃらないと思っていました…」 千秋はまっすぐ前を見ていた玲奈の横顔にキスを落とす。 「…うん。早く桔梗に逢いたくて、仕事を弟に押し付けて来ちゃった」 その言葉に驚いて千秋を振り向いた。社長代理をしているという千秋が、どのような仕事内容をしているのかは想像すらできないけれど、かなり重要な役なのだろうことは玲奈にだってわかる。そんなに大事な事を放って、自分なんかを優先してしまっていいのかと戸惑う。 「千秋様…あの、良いのですか…? お仕事…」 「あれ、桔梗は俺に逢いたいと思ってくれてなかったの?」 玲奈よりも千秋の方が背が高いのに、屈んで覗き込むようにして、上目に問われる。答えを知っているくせにと、玲奈は少しむくれてみせた。 「…意地悪ですよ。千秋様…」 千秋は玲奈の返事に苦笑して、また玲奈を抱きしめた。布越しに感じる体温も、鼓動の音も、包まれている千秋の匂いも。何もかもに、嬉しさがつのっていく。 「くすくす。…俺も、相当我慢がきかないなぁ」 千秋は呟くと、玲奈を横抱きに抱き上げた。そして褥のある部屋の襖を開け、玲奈をゆっくりと降ろす。 「…初めての時は、あんなに緊張してたのにね…」 「…ん…っ」 啄むようにされるキスの合間、千秋が言う。 「…そんな、気持ち良い…?」 千秋の手が、着物の合間から差し入れられる。初めて抱かれたときと同じ手順で、玲奈を確実に追い込んで行く。同じようにされていても、もうあの時の身体でも、心でもない。千秋に抱かれて、その歓びを知っている玲奈の身体は、中から溢れるのが自分で分かる程に、その蜜を垂らしていた。 「……ん…ぁっ…千秋…様…」 玲奈は無意識のうちに、胸を食む千秋の髪を掻いた。 「…ふ、やっぱり連れない…」 千秋が顔を上げ、玲奈にキスをする。脳はふやけ、千秋の言葉の意味を考えるような余裕もない玲奈は、ただキスに応えていた。 「桔梗…本当の名前はなんて言うの…?」 「…え…」 この新吉原に売られた日から、本当の名前を名乗る事は許されなかった。「玲奈」と呼ばれた数よりもきっと、「桔梗」と呼ばれた数の方がずっと多いと思う。自分で呼ぶこともないその名を、口にするのはいつ以来だったろうか。 「………玲奈…です」 口に出した途端、胸の奥から溢れるものがあった。悲しいわけでも無いのに、目頭が熱くなって、抑える事ができない。 「…玲奈? どうしたの…」 千秋は自然にその名を呼んだ。呼ばれた瞬間に、溢れた涙が流れてしまう。後から後から、止まらない涙に玲奈自身も戸惑っていた。 「…っあの、なんだか…。とまらなくって…っすみ、ません…千秋様…」 千秋は雫を唇で拭いながら、玲奈の口元に人差し指を乗せる。 「ほら、連れない…。…もう客ではなくなるんだから…その、”様”っていうの、止めない…?」 唇に触れた指が、とんとんと軽く下唇を叩く。 「……千秋……さん…?」 おずおずと口にした玲奈に、千秋が微笑む。 「はは、…まぁそれでいいか」 いつか聞いたような台詞とともに、千秋の舌が玲奈の口内を侵す。今日程幸せな日はないと思うのにこれからはこんな日も普通になっていくのかと、麻痺しそうな気持ちに怖くなる程、幸せを感じていた。 「…っん、ぁ…ん…っ」 千秋の熱い猛りに、最奥まで貫かれる。淡くともる灯りに照らされた千秋の身体はしっとりと濡れ、言い様も無く淫らな情景を作っていた。 「…っん…! ぁ…千秋さん…っ! も…っわたし…」 「…うん。良いよ…」 「……っ! あぁっ…っん、…っ、――――――っ!」 千秋の動きが一層激しくなったかと思えば、玲奈は弾けるような感覚とともに、絶頂を迎えていた。 ◆◇◆◇◆ 白く細い肢体は小刻みに痙攣し、その中はきゅうと締まる。玲奈の中に放った欲望が流れ落ちるのを眺めながら、千秋は満足げに微笑んだ。自分が育てて立派な遊女にするつもりだった少女に、結局は自分で身請けする程に嵌まり込んでしまっている。けれど、いつもならば不快だと思うだろうその状況も、酷く千秋を喜ばせていた。 (…玲奈…) 告げられた彼女の名前を、心の中で何度も呼ぶ。愛しいと、素直に思える存在。そんなものができるとは、露程も思っていなかった。 「……玲奈…」 「………ん……」 身じろいだ彼女に、声に出してしまったかと自分を禁める。ここ最近、ずっと無理をさせてしまっていると思う。玲奈の身体を思えば、千秋の体力に任せてその行為を強いるのはどうかとも思う。客ではなくなると言っても、長く教育されてきたせいか、玲奈は求められればそれに応え、拒むことを知らないようだった。 けれど彼女を見れば、抱かずには居られない。始めてしまえば、終わらせる事ができない。 (……俺も、玲奈だけだよ…) 絶頂のまま眠りについた玲奈の額にかかる髪をよけ、静かにキスをする。それだけでは足りなくて、唇にも何度かキスをした。 (……一緒の夢を見れたらいいね) 眠る玲奈をその腕に閉じ込めて、千秋も柔らかな夢におちた。
[2019年 3月 13日改]