第十九夜 悠遠の里/h3>





 





 何かを閉じ込めて



 何かを殺して



 何かを無視して





 自分を不幸だとは思わなかった



 それが普通で



 それが日常だったから











 朝起きれば



 白いご飯が用意され



 夜寝るときには



 暖かな布団が敷かれて





 こんなに素晴らしい所があったなんて







 ―――わたしはまだ、幼かったね




◇◆◇第十九夜 悠遠の里◇◆◇




 携帯のマナーモードの鈍い振動音で目を覚ますと、玲奈は部屋の中にはいなかった。どこへ行ったのかと思いながらも、スーツのポケットにある携帯を取り出し、画面を確認してから通話ボタンを押す。

「……はい」

『はいじゃねぇよ。どうせ新吉原だろ? 迎えをやったからさっさと来いって』

 どこでそんな言葉遣いを覚えてきたのか、弟の口調に眉をしかめる。

「…美冬、昔は可愛かったのに…」

『はぁ? 何?』

「いや、なんでも。わかったからそう怒鳴るなって」

 電話の向こうでぶつくさと文句を言う声を流して、携帯を切る。浅くため息をつきながら支度を整えていると、パタパタと廊下を走る音が聞こえた。

「あっ…! 千秋様…起きていらしたんですか。すみません、朝餉を頼んで来ていたので…えと、え…?」

「…玲奈、”様”になってるよ」

 耳元で囁くと、彼女は真っ赤になって耳を抑えた。

「ぇ、あっ…! えと、…すみません、千秋…さん…」

 まだ慣れていないのか、少しどもっている玲奈に苦笑して、その頭を撫でた。

「良いよ。これから慣れるだろうしね。…あぁ、折角だけど朝餉は食べさせてもらえそうもないんだ。迎えが来るらしいから。また夜に来るよ」

「あ…はい、お待ちしています…」

 明らかにしょぼくれてしまった彼女をもう一度抱き寄せて、額にキスを落とす。物足りなさそうに見上げて来る玲奈に理性が揺れたけれど、これ以上するのは我慢することにした。門の外、いつまでも見送る玲奈を可愛く思いながら、いつものように会社に向かった。




◆◇◆◇◆




「なぁ、親父が随分待ってるみたいだったけど」

 会社に出ると、待ち構えていた美冬に書類を山と渡され、それを片付けるためにこうしてデスクに向かっている。美冬はというと、昨日からのハードワークで疲れたとかで、千秋の見えるところにある革張りのソファに寝そべっていた。

 千秋は母親ゆずりの色素をしているが、美冬は孝雄の遺伝子を色濃く移し、真っ黒な髪と瞳をしている。身長も千秋よりも五センチは高そうなので、おそらく百八十センチ以上あるんじゃないかと思う。

「あ…そう言えば忘れていたな。今度寄る」

「今度ってそれ毎回言ってんじゃねぇか。いい加減帰ってやったら」

 鋭い美冬に苦笑を漏らしながら、山積みにされた書類を次々に処理して行く。その早さは本当に目を通しているのか不安に思う程だ。

「なぁ、兄貴ってまだここ継ぐ気になってねぇの?」

「…お前は?」

 今は千秋が仕事を代わっているが、美冬の各部署研修が終わり次第交代するつもりだった。千秋はいつも、後から美冬がやりにくいと言う事が無いように人間関係を作ってきたつもりだし、もし美冬が継ぐのを断っても、千秋自身が継ぐということは考えていなかった。美冬は千秋のそんな様子に気づいていて、ため息を漏らしながらぼやく。

「なんでそうかな。親父は兄貴に継いでほしいみたいだけど」

 孝雄が大きくしたグループは、今や各界に発言権を持つまでに成長していた。昔から、長男である千秋にそれを継がせるため、そして美冬にはそのサポートをさせるために、教育にも力を入れる様な男だった。思惑通りに成長し、今も仕事をそつなくこなす千秋への孝雄の期待は大きい。

「俺はグループとかどうでもいいし。俺が継ぐよりも兄貴のがいいんじゃね?」

 兄弟で顔を合わせるのはそう多くはないが、最近は顔を合わせた回数だけこの会話を繰り返している様な気がする。

「はは、まぁ…そのうち考えるよ」

 美冬はまただ、と鼻から息を吐き出した。




◆◇◆◇◆




 身請けが決まってから数日が過ぎていた。ここに売られてきてから、こんなに心に余裕を持っているのは初めてかもしれない。玲奈は今まで夕霧廊からあまり離れた所まで来た事はなかったけれど、新吉原を離れる事が決まった今、良く自分の育った場所を見ておきたいと思い、今日は外に繰り出していた。見世の男衆が一人付き添いで来ていたけれど、その者が話しかけてくる事もなく少し離れた所を付いてくるので、玲奈は自分の思うまま歩いていた。大門からそう遠くない所にある夕霧廊は大門から一直線に続く大通りに面していて、裏や奥に何があるのか等、十五年近くここに住んでいながら何も知らなかったのだと新吉原を歩きながら思う。

 土で固められた通りには茶屋や小物屋があり、きらきらと光るガラスの飾りに心を浮き立たせていた。沢山の客から贈られたものはこういう店で買ってきてくれていたのだろうか、値札の無いその飾りも、相当に高いものだとわかる。興味で値段を聞いてみたけれど、着ている物などから一目で高級遊女とわかる玲奈にははぐらかしてばかりで、教えては貰えなかった。



 日没も近づき、そろそろ夕霧廊へ帰るようにと付き添いの男衆に言われた。そう歩いた気もしていなかったけれど、気づけば随分奥の方まで来ていたのだと驚く。帰ろうかと身体の向きを変える時、道の端に咲く花を見つけた。鳥やなんかが運んだ種がたまたま咲いただけなのかもしれないが、固められた土にも負けず、元気に花を咲かせている。夕暮れの紅い陽に照らされ、吹き抜ける風に葉を揺らすその花に、玲奈は手を伸ばした。

(……摘んでしまうのはかわいそうだよね)

 伸ばした手を戻して、夕霧廊への道を急いだ。




◆◇◆◇◆




「…えぇ…そうですか…」

 夕霧廊が近づくと、門のところで話しているのだろう莉堂の声が聞こえた。門に入ると莉堂が玲奈に気づき、呼び止められてしまった。

「こちら西城孝雄様です。あなたに話があるということですから、奥の間に案内してさしあげてください」

「…え…?」

(西城孝雄様…?)

「西城千秋様のお父様ですよ」

「え…っあ、はいっ。こちらへどうぞ…!」

 驚きのままに奥の応接間に案内し、禿にお茶とお菓子を頼んで彼と少し離れた所に腰を下ろした。ゆったりとした動作は千秋に似ているかとも思うけれど、顔や髪の色は似ていない。整っている作りではあるが、千秋のそれとは違うもののように思える顔立ち、真っ黒だったのだろう髪は少し白髪まじりで、口元に品良く髭を蓄えている。

 

 玲奈は突然千秋の父親が訪問したことに不安を覚えていた。親であれば、遊女を囲うと息子が言えば反対するのが普通だろうと思うからだ。

「…まず、…まぁ知っているだろうけど、自己紹介をしようか。私は西城孝雄という。よろしくね」

 人の良さそうな笑顔に、少し気分を落ち着かせながらも、緊張気味に返した。

「初めまして、桔梗と申します」

 玲奈がそう名乗ると、孝雄の顔に少しの影が出来たような気がした。

「……こうして、いざ来てみると何から話そうか…」

 逡巡を見せる孝雄が言葉を紡ぐのをじっと待つ玲奈の手には、嫌な汗が滲んでいた。



「まず、千秋との事なんだがね…」

 千秋の名が出る事は覚悟していたはずなのに、その言葉を聞いただけで胸がどくどくと早まる。

「身請けの話が進んでいるようだが、それは取りやめさせようと思うんだ」

 孝雄の言葉が、酷く遠くで聞こえた。目の前の光が急に奪われて、何か言わなければと思うのに、何も言葉が出てこない。

「―――で、さっき莉堂君にも話していたんだが、君のことは私が引き取ろうと思う」

(―――――え…?)

 途中の話を少し飛ばしてしまったかもしれないが、最後の言葉はしっかりと聞いた。

「…え、あの…?」

 意味のわからない状況に、玲奈の頭は少しも役に立たない。

「借金の事も、全て私が代わってあげるから安心しなさい」

 孝雄は尚も、微笑みを崩さずにそう言い切った。

「あのっそれは、どういう…?」









 孝雄の口から放たれる言葉は、玲奈を大きく揺さぶった。一言一言が胸に痛くて、とても信じられないと思った。



 誰かに助けて貰いたかった。この、わけのわからない状況から。







 ―――やっと、幸せを見つけたと思ったのに。





[2019年 3月 13日改]