第二十二夜 淡き言霊





 





 笑うことで



 幸せを呼べるんだって



 誰かが言ってた





 ため息をつくと



 幸せが逃げて行くって



 誰かが言ってた







 ならどんなに悲しくても

 

 笑顔でいなければならないの





 吐き出したいその気持ちも



 胸に貯め続けなければならないの







 泣く事で



 洗い流される思いもあれば



 深呼吸することで



 入れ替えられる気分もあるの





 誰だって



 迷う時間も必要なの




◇◆◇第二十二夜 淡き言霊◇◆◇




「申し訳ありませんが、桔梗は具合が悪いらしくて…」

「…そうですか。ではまた来ると伝えて下さい」

 昨日に引き続き夕霧廊にやって来た孝雄に頭を下げて見送った莉堂は、門に入ってから浅くため息をついた。詳しい事情は聞かされていないけれど、当初千秋が申請してもうすぐ書類も揃うという時に、孝雄が自分が引き取りたいと申し入れて来た。本来ならば、身請けされる遊女の同意が必要な上に、他の客に身請けされることが決まっている遊女をまた違う客が引き取るということは成立しないものの、申請と同時に多額の寄付金を送りつけて来た孝雄の意向を丸々無視することも出来ないらしく、桔梗の身請けは現在保留状態になっている。

 今朝、散歩から戻ってきた桔梗はそのまま部屋に上がり、莉堂や禿の呼びかけにまったく応じない。いつも聞き分けも良く、そんな風にふさぎ込むことがなかった彼女のこと、今の状態がかなり異様だということはすぐに分かった。管理するという立場上、特定の誰かを特別扱いすることはないけれど、夕霧廊にいる遊女は全員、莉堂の娘のように見守っていた。

 身体を売ることを強要している立場の自分が、彼女達の親だなどとは烏滸がましいかもしれないけれど、それでも莉堂はいつか好きな人が出来たらその人と結ばれればいいと思っているし、年季を明けた遊女にはその後に幸せを掴んでくれればと常に思っていた。まだここが何なのかもわからない程幼い頃に新吉原に売られ、ここで育った桔梗も、もちろん。

「あの…」

 桔梗付きの禿だった玉梓と乙葉は、桔梗が身請けされた後は他の遊女付きになる予定だ。けれどそれも、桔梗の身請けとともに保留となっている。物思いをしていた莉堂は、玉梓の声に我に還った。

「どうしました」

「あの…桔梗姉さんが、夕餉はいらないと言っていて…」

 いつに無いことに、彼女達も戸惑っているようだった。

「…はぁ。わかりました。貴方達は下がっていいですよ」

 禿を下がらせ、階段を上がる。部屋の灯りもつけずに、襖の奥はひんやりした雰囲気を醸していた。

「…桔梗。開けますよ」

「……」

 部屋からの返事がないので、そのまま襖を引いた。部屋の中に、彼女は居た。窓を開けて桟に凭れ、外を眺めている。

「…桔梗」

 もう一度呼びかけたけれど、彼女からの返事はない。しばらくして、莉堂は諦めて部屋を出ようとする。

「………莉堂さん…」

 襖に手をかけ、部屋に背を向けたまま、莉堂は立ち止まった。

「………私のお母さんの事…覚えてますか…?」

 その言葉に、莉堂はゆっくりと振り返った。桔梗は尚も窓の外に身体を向けて、何を見ているのか、窓の外をまっすぐに見つめている。

「…えぇ、覚えていますよ。お会いしたのは二回程でしたけど」

 娘を売りたいと、新吉原に来たのが一回目、そして娘を売りに来たのが二回目。綺麗に化粧された顔は、美人というよりも妖艶という言葉が似合うだろうと思う。けれど彼女は酷く痩せて、疲れているようだった。

「………亡くなっているって言われました…」

 ぽつりと吐き出された言葉に、妙な違和感を覚えた。

「……それは…心中お察しします」

 それ以上何かを言う気配もないので、一人にしておいた方がいいかと、莉堂は部屋からでて襖を閉めようとする。

「………悲しい事ですよね…」

 呟く声が聞こえたけれど、そのままパタリと閉めて階下に降りた。




◆◇◆◇◆




「うわ…なに? アレ」

「でしょ? 怖いっすよね…! なんか今日来た時からああなんすよ」

 美冬の何やら緊迫した電話を受けて、学が西城グループ本社に立ち寄った。美冬が怯えているもの――千秋――を一目見て、学は回れ右をして二人で廊下に逆戻りしてきてしまった。真っ黒なオーラを出しながら、黙々と仕事をこなしている。普段胡散臭いほどに柔らかな空気を纏う千秋が、これほど苛立っているのも珍しい。というか少なくとも、学の知る限りでは初めて見る姿だ。

「しかも今日は実家帰るとか言ってるんすよ…! や、むしろ今日は帰ってこなくていいから…」

 美冬は頭を抱えてうずくまる。でかい図体の割に、こういうところは小さい頃とあんまり変わっていないと少し面白くなったけれど、後ろからかけられた声に再び身を竦ませた。

「美冬…に学? そんなところで何してるの」

「あ、あぁ千秋。や…ちょっと仕事でこの辺寄ったからさぁ」

 急なご本人登場に、必要以上に焦ってしまう。

「…まぁいいけど。美冬、この書類目を通しといて。俺は先に帰るから」

「あ…ハイ」

「? 何お前、なんか変だね」

 千秋が不審な目で美冬を見る。

「は、や、別に変じゃねぇから。わかったからさっさと帰れよ」

 慌てて取り繕うと、千秋は不審がりながらもそれ以上追求する事無く帰って行った。千秋の姿が十分に見えなくなってから、美冬と学が目を見合わせる。

「……まぁ、頑張ってね」

「そんなぁ…」

 美冬の肩にぽんと手を置いて励ましてから、学も帰路についた。




◆◇◆◇◆




 夜の闇の中淡く光を放つ大門の提灯を、見るともなく見つめていた。母親の事は朧げな記憶しかなくて、思い出す事もあまり良い思い出ではなかった。母が亡くなっていたということに驚いたけれど、もう十年近く経っているその死を、やけに静かに受け止めている。

 ―――どこかで生きていてくれれば。それを支えにしていたはずなのに、その支えを失っても心が壊れるということもなく、酷く冷静な自分がいた。

(…酷い娘……)

 親の死を悼むことも出来ないのかと、自分を嘲ったような笑みすら見せる。玲奈にとって今一番ショックの大きかったのは、千秋とのことだった。やっと幸せを見つけたと思った。孝雄の話を聞く前まで、天にも昇れそうな程にそれを感じていたはずだった。けれどその時の自分を羨ましく思ってしまう程、今は悲しみに沈んでいる。

(…嫌われちゃったのかな……)

 血が繋がっていてもいなくても、千秋を好きだということに変わりはない。兄妹で交わる事が禁忌でも、触れられればやはり嬉しいのだと思う。

(―――…浅ましい…私…)

 許されるわけがないと分かっていても、そんなことを考えている自分に嫌気がさした。誰も答えをくれない。今、何をどうすればいいのか。二人きりで、誰も何も知らない世界に行きたい。

「―――…好き…」

 窓の外、大門から来る人の並に彼の姿を探す。

「―――……好き…」

 その言葉が何かをくれることを期待するかのように、玲奈は何度もそれを口にする。秋の夜風に吹かれて、儚い言葉が空に消えた。







[2019年 3月 13日改]