第二十三夜 愛情錯誤《あいじょうさくご》






 





 春になれば命が芽吹き



 夏になれば青く茂り



 秋には澄み渡って

 

 冬に深い眠りにつく







 季節は移り変わって



 世界の色を変える





 限られた空間の中にあって



 どこまでも自由な私たちに





 課せられた鎖は



 自分という虚けた器




◇◆◇第二十三夜 愛情錯誤◇◆◇




 夜のネオンを目の端で流しながら、久しぶりに通る道に車を走らせていた。車通りの多いオフィス街を抜け、三十分程行けば、さっきまでとがらりと変わって緑の溢れるゆとりある空間が見えて来る。見渡す限り、西城グループの私有地であるため、ここには人の姿もない。更に車を走らせると、ただ広い空間の真ん中に建てられた豪奢な門が見える。

「……はぁ。……いつ見ても悪趣味な建物だなぁ…」

 思わず漏らしたため息に、彼の心情が顕著に現れている。門を抜け、駐車場に車をとめて玄関に向かう。カードキーをリーダーに通すと、暗証番号が聞かれるようになっている。ピピピ、という小気味良い音が響き、ドアがひとりでに開いた。こういう凝った仕掛けをするのは、もちろん防犯対策という事もあるが、だいたいは孝雄の趣味によるものだった。新しいものが好きで、最新の機器などを買いあさる孝雄の、コレクションの一部がたまたま防犯対策に利用されているのだ。この玄関の他にも、至る所にあらゆるものが取り付けられているらしい。全部聞こうとすると余計な時間を過ごすことになりそうだったので、説明した気な孝雄を制し、取りあえずは必要なものだけを教えてもらった。

 千秋が玄関で靴を脱いでいると、奥の部屋からぱたぱたと走ってくる足音が聞こえた。

「まぁ、早かったのね。孝雄さんはもうちょっと遅くなるって言ってたけど…あなたの方が早いとは思ってなかったわ。久しぶりね、千秋」

「ただいま、母さん。遅くなるなら丁度いいよ。母さんにも話したいことあるから」

「あらなぁに? あなたが話だなんて、怖いわね」

 くすくすと笑う母、景香は栗色の髪に同じく栗色の瞳を持つ。長くウェーブした髪を左側で三つ編みにしてたらし、柔らかく微笑んでいた。




◆◇◆◇◆




 孝雄が家の玄関を通ると、景香の声が聞こえた。いつになく切迫しているような声色を不審に思い、足早に居間に向かう。居間には大きなソファに座っている千秋と、その前に立っている景香の姿があった。

「景香? どうしたんだ、そんな顔をして」

 今にも泣き出しそうな妻を一番に心配し、それと対峙している千秋の方をちらと伺う。千秋は冷静な顔つきをしていて、なにか喧嘩をしているという風でもない。

「…孝雄さん…あの、……私ちょっと部屋に戻っています」

 孝雄の手を避けて、景香は上の階にある自分の部屋へと向かった。孝雄は残された千秋の向かいに腰掛けて、どうしたものかと思考を巡らせていた。

「あーー…と、千秋、久しぶりだなぁ元気だったか? ずっと前から帰ってこいって言ってたのに、なかなか来てくれないから父さん寂しかったぞ」

 千秋が何の為に帰って来たのかが分からない程孝雄も馬鹿ではないけれど、座っているだけの千秋の表情に妙な威圧感を感じて、その空気を拭う為のどうでも良い言葉が口をつく。

「……本当に、待たせてしまってすみません。まさか、こんな事になると思っていなかったので」

 昔から何を考えているのかわからない子供だったけれど、それが特に害のあることでもなかったので孝雄は何も思ってはいなかった。今は緩く笑みを浮かべる千秋の思考が読めないことに若干の焦りを感じる。しばらく何を話そうかと迷っていた孝雄だが、悪戯に時間を割くのも意味が無いと、本題に直接入ることにした。

「…玲奈ちゃんの事なら、お前にも本当に悪いと思っている。しかしお前達が兄妹である以上、お前が彼女を身請けするわけにはいかないだろう? むしろ身請けをしてしまった後でなくて良かったと私は思っているよ」

 静かなまなざしを受けながら、孝雄は話す。

「今までの事は仕方が無い。が、私が玲奈ちゃんを認知してからは、ちゃんと兄妹として仲良くして欲しいとも思ってる。勝手な事とはわかっているが…」

「わかってないですね」

 静かに話を聞いていた千秋が、孝雄の話に口を挟んだ。そんな事はいつになかっただけに、そこで言葉を飲み込んでしまう。

「………千秋…」

 何を考えているのか、千秋の瞳に畏怖さえ感じる。

「……わかってないでしょう。簡単にそんな言葉言わないで下さい」

 何をさせるにも、千秋が孝雄にこんな風に言う事はなかった。どんなことをやらせても軽々とこなす自分の息子達は孝雄の自慢の一つでもあった。千秋は特に、その才能に期待するところが大きい。昔から女の子に間違われるような綺麗な顔立ちをして、妻に良くにている千秋のことを本当に可愛がって来たが、今、見た事もない迫力を持つ彼に戸惑いを隠せない。

「…血が繋がっていようと、なかろうと関係ありません。俺にとって、玲奈がどんな存在か、あなたはわかってない」

 淡々と話す千秋の瞳には強い意志が見て取れた。

「さっきまで母さんとも話していたんですけど、あなたが玲奈を戸籍に引き入れるなら、俺は西城を出ます」

「な!? そ…んなことをしても血が繋がっているという事実は変わらないだろう。それに、私はお前にグループを渡すつもりで…」

「グループなんて美冬が継げばいいでしょう。もし美冬が継がないなら外部から人を立てれば済む」

「! 千秋…っ」

 千秋の言葉に衝撃の止まない孝雄を差し置いて、千秋はゆっくりと立ち上がる。

「……俺はずっと、グループを継ぐつもりはありませんでした。でもあなたが俺に期待していることも知っています」

「……」

 帰り支度の整った千秋は、居間をでるところで立ち止まって振り返った。放心して立ち尽くしていた孝雄に笑いかける。

「取引しましょう」




◆◇◆◇◆




 美冬が家に帰ると、千秋が丁度帰ろうとしているところだった。

「あれ兄貴、もう帰んの」

 嫌に重い空気を払拭するように、わざと明るく声をかける。

「あぁ、悪いな美冬」

「?」

 笑顔で手をひらひらと振る千秋を見送ってから、家の中へ入る。いつも出迎えてくれる母親の姿も、いつもは居間にいる父親の姿もそこにはない。どうしたのかと思いながらも、自分の部屋に行こうと階段に足をかけると、母親の泣き叫ぶ声が聞こえた。何を言っているのかは分からないが、何かを言い争っているようだ。仲の良い両親にしては、珍しいことに美冬は驚く。

(……兄貴、何言ったんだよ…)

 千秋が帰った後なだけに、その原因はおそらく彼だということは想像に難くない。夫婦の喧嘩に割り入るのも気が引けるので、美冬は居間で待機することにした。




◆◇◆◇◆




 帰りの道の途中、炉端に車を一時停め、自分と同じ色の髪の毛をビニールの小さな袋に入れて、ポケットに閉まった。ずっと、胸にあった不信感。今までは別段問題も無かった為に敢えて明確にしようとしなかったこの問題に、直面するときがきただけ。



 ハンドルに寄りかかって、柔らかく微笑む彼女を思い浮かべる。どこのどんな女にも、大切にしようという気持ちになれなかった。そんな千秋に、初めて出来た愛おしい存在だった。恋愛に冷めていた自分に、温もりを与えてくれたのは彼女だ。人を好きになる歓びを知ったのも彼女がいたから。今更兄妹だからといって、諦められるはずがない。

 

 千秋は一つ深呼吸をすると、身体を起こしてハンドルを握る。秋の夜長、窓から入る冴えた空気に髪を揺らしながら、再び車のアクセルを踏んだ。




◆◇◆◇◆




(―――…今日も…彼は来ない……)

 窓の外、外と内との境界を作る大門は、今日も多くの男達が行き交っている。どのくらいこうしているのだろうか。何もする気になれなかった。三日程だと思うのだが、食べも飲みもせずずっとここにいる玲奈を心配して、禿達が涙ぐみながら食事を取るようにお願いしてきた。こんなに心配をかけていたのかと反省し、それからは普通に食事を取り、風呂にも入るし、禿達と話をしたりもするようにした。けれど何をしていても、世界に霧がかかったようにその全てがぼやけて、現実を生きている感覚がない。結局は基本的生活以外の時間を、窓の外の大門を見ながら過ごしていた。

 

 今日もぼんやりと、橙の淡い光を放つ提灯に視線を注ぐ。

「…桔梗、降りて来て下さい。お客様ですよ」

 襖の向こう側から、莉堂の声がする。

「………すみません…具合が悪いので出られないとお断りして下さい…」

「……わかりました」

 誰かはわからないけれど、もし千秋なら莉堂を通さずに上がって来ても良いはずだし、何よりずっと大門を見ていたのだから、彼ではないことはわかっている。どんなに遠くても、例えいつもと違う格好をしていたって、玲奈には気づける自信があった。

 



 莉堂の遠ざかる足音が聞こえ、何分も経たないうちに、また階段をあがってくる足音が聞こえた。部屋の前で立ち止まったかと思えばパン、と気もちいい音と共に襖が開けられ、驚いて振り向けばそこには学が立っていた。

「絶賛引きこもり中のところ悪いんだけど、ちょぉっと時間いいかな」

 悪びれもせずににこにこしながら部屋に入り、玲奈の近くまで歩いてくる。

「……伊勢様…? あの、え…」

「桔梗ちゃんさぁ、千秋となんかあったんでしょ?」

 何か、ということは、千秋は学に詳しい事を話していないのかと、玲奈は少し驚いた。

「あの……」

「あぁ、言わなくてもいいよ全然。でもちょっと、桔梗ちゃんに会いたいって奴がいるから会ってみてくれない?」

 学の口調はいつも軽いけれど、重要な時には少し瞳が真剣になることに、玲奈も気づいていた。誰かと話す気分になれないままだったけれど、玲奈は小さく頷いた。

「良かった。美冬っち〜入って来ていいよ〜」

 美冬っちなどと言う可愛らしい名前で呼ばれ、入って来たのはその名からは想像できないくらい大きな男だった。顔はよく見れば整っているようだが、その身体のインパクトに隠れてしまっている。

「じゃぁ、二人でどうぞ〜。あ、俺は下にいるから。美冬っちは桔梗ちゃんに変なことしたら駄目よ〜」

 学は軽く笑いながらそう言った後、美冬の耳元で彼にだけ「お兄ちゃんに殺されちゃうよ?」とぞっとしない冗談を残して階下に降りて行った。



 初対面の男と二人になった部屋で玲奈は戸惑っていた。初対面だからというわけではなく、彼の放つオーラに。どこかで見たことのあるような気もするが、こんなにインパクトのある方を忘れることもないだろう。

「あ…あの…? えと、初めまして、桔梗と申します」

 取りあえず挨拶は必要だろうかとそう名乗ってみる。じっと立ったまま玲奈の方を見ていた美冬は、ふー、と息を吐いてその場にドサッとあぐらをかいて座った。

「あんたの名前、玲奈っていうんだろ?」

「え…」

「え、じゃねぇよ。俺は西城家の次男、美冬だ」

(あ……じゃぁ……)

 西城家の次男ということは、千秋の弟ということで、それはつまり玲奈とも兄妹ということになる。玲奈は何を言っていいのかわからずに、じっと美冬が話しだすのを待っていた。

「………それであんた、兄貴の恋人だってマジ? あいつあんたを身請けするつもりでいるって聞いたけど」

「――…! ……恋人……だなんて…」

 煮え切らない玲奈の返事に、美冬が眉間の皺を深くする。

「じゃぁ何なんだよ?」

「………えと…」

 自分と千秋の関係を、恋人と呼んでいいのかわからなかった。千秋は自分のことを好きだと言ってくれたし、身請けも本気で言ってくれたということはわかるが、恋人だとはっきり言ってしまうのは、千秋に対して申し訳ないような気がする。黙ったままの玲奈を美冬はしばらく観察していたが、は〜、と大きくため息をついて、頭をわしゃわしゃとかいた。

「あ〜〜…。あんたさぁ、あいつが今なにしてるか知ってんの?」

「…?」

 玲奈は首を傾げる。

「知らねえんだ? まぁ、こんな所で待つしかできねぇんだししょうがねぇか」

 美冬の遠慮のない物言いに、玲奈は少し俯いた。事実である事に傷つくのは馬鹿だと思っても、美冬の言葉をうまく流せないでいた。確かに自分は新吉原の外に出る事もできないし、彼に会いたいと思ってもただ待つしか出来ないのだ。

「……あ〜〜…悪りぃ。あんたも好きでここにいるわけじゃねぇよな」

「…え…」

「俺気がきかねぇからさ。悪気はねぇから」

 頭をかきながらそんな事を言う美冬を、玲奈はまじまじと見てしまう。今のは少し落ち込んだ玲奈を見て、気を遣ってくれたのだろうか。大きな身体と、聞き慣れない話し方で少し怖い印象を持っていたが、やはり千秋の兄弟らしく、態度や言葉の中に優しさを感じられるような気がして、玲奈は微笑んだ。

「あの…千秋様は何かをなさっているのですか?」

「ん〜。最近やけに実家と会社往復してるから、何かやろうとしてんだろなぁとは思うけど。まぁあんたは気にせず待っとけば? 親父はあんたを娘として身請けしたいらしいけど、兄貴は親父に身請けさせる気はないらしいし」

「………美冬様は、私と千秋様のこと、反対なさらないんですね…」

「はぁ? …あぁ、兄妹とかっていう話? 知らなかったんだししょうがねぇんじゃねぇの。俺はそのことは全面的に親父が悪いと思ってるし」

 美冬はその後も、ぶつぶつと文句を言っていたが、玲奈には聞こえていなかった。

(―――…反対しないんだ…)

 誰にも受け入れられない関係だと思っていた玲奈にとって、美冬の何気ない一言がとても特別に聞こえた。




◆◇◆◇◆




「あ、美冬っち〜桔梗ちゃんに変なことしなかっただろうね?」

 階下に降りると、学が莉堂と話をしている所らしかった。

「してないっすよっ」と慌てて否定する美冬を先に外に出し、学が玲奈を呼び止めた。

 桔梗の耳元で、内緒話をするように手をあてて。

「あのさ、ちゃんとご飯は食べようね」

「…え…?」

「千秋が迎えに来た時にそんな痩せてたら、抱き心地悪いって言われちゃうよ?」

 冗談のようにそう残して、美冬を連れて学は帰って行った。軽く言っていても、学が玲奈のことを本当に心配して言ってくれたとわかる。そうやっていつも彼は玲奈を応援してくれている。今更ながら、沢山の人の優しさに胸が熱くなった。直接言われる事はないけれど、莉堂も自分を心配している。今日美冬や学に会うまでは、死神に取り憑かれてしまったような暗い気分だったけれど、今は世界の霧も晴れて、心に重さを感じなかった。

(―――…ありがとう…)







 女の悲境、新吉原。それでもここで、人の温かさを感じられる。

(幸せがどんな形か、探すと見つからないんだね…)

 その形は一つじゃないから。大門を見る玲奈の目も、さっきまでのものではない。これからは縋る為じゃなく、千秋のことを待てそうな気がしていた。




[2019年 3月 13日改]