15









 この狭い世界の

 どこを探してもきっと

 それはどこにもなくて




 あの広い世界の

 どこを探してもきっと

 それはどこにもなくて


 


 変わりゆく世界の中で

 変わらないものを探しても

 きっと

 それはどこにもなくて




 ねぇ、知ってる?



 変わらないものを

 ずっと探し続けることは


 もう、それだけで


 奇跡なんだってこと





 Episode 015. TIME full of EMOTION - 溢れる時 -






 カレルは、青年の姿に成長していた。その温かい部屋で、ブロンドの髪の女が今にも息を引き取ろうとしている。それを、その部屋のドアに寄りかかってみていた。彼女の手を握っているのは、カレルと同じ色の髪を持つ悪魔だった。悪魔としては、かなり変わり者で、気の弱い男だった。そして、カレルの父でもあった。

「…オルソ…カレル…?」
「いるよ。ここに」

 オルソはどうだか分らないが、カレルは気がついていた。窓の外から中を――彼女を――伺う二人の悪魔に。力を持っていたわけではないのに、こうして彼女は、悪魔を虜にしてしまっている。不思議な女、とカレルは心の中で呟いた。

「…ふふ。二人とも、大好きよ」

 一言言うと、シルヴィアは息を引き取った。人間の寿命を伸ばす事は、悪魔の血にもできないらしい。シルヴィアは、この魔の里に来てから、何度か死の淵を彷徨っていた。その度、オルソは彼女に自分の血を飲ませていた。シルヴィアは途中から、無理矢理に命を伸ばす事を拒絶したが、オルソはその事については頑として、彼女の意見を聞き入れなかった。けれど今、伸ばし続けた命が尽きた。人間の心臓は、その鼓動を刻める回数が決まっている。それを極限まで使ったのだから当然だった。
 オルソはその背中から、どれほど悲しんでいるのかを伺えた。カレルは溢れる唾をこくりと飲んだ。彼女の魂が輝いて、心臓から離れていくのが見える。今まで見た、どの光よりも強く、輝いている。

「それ、どーすんの?」
「……墓を作って、そこに埋めるよ」
「はぁ?」

 信じられないという思いを、精一杯滲ませた声を出す。やはり、変わり者は変わり者でしかないのか。

「馬鹿? 食えばいいじゃん。その女だって文句言わないんじゃない?」

 カレルも、横取りしようとは思わない。シルヴィアの魂は誰にも契約されていないけれど、それを食っていいとすれば、それはオルソだけだろうと思っていた。けれど、当の本人にその気はないらしい。呆れた声でそう言うと、オルソは振り向かぬまま応えた。

「お前には、それが出来るんだね」

 自分にはとても出来ない。カレルにはそう聞こえた。




       -†-†-†-



 ―――この日記が、いつか開かれる日が来るのかしら。私の居なくなった世界の事を、私は想像することしか出来ないけれど。そうね…きっと、オルソもカレルも、自由に生きているんじゃないかしら。私には無い、翼を使って、大きな空をどこまでも飛んで行けるんだもの。―――

「俺は自由だけどね」

 カレルは一人ごちた。

 ―――あの男は、まだあんたに縛られてるよ。

 心の中の呟きが、彼女に届くはずもないが。日記は、彼女の亡くなる前日まで書き綴《つづ》られていた。今日は何をした。オルソが、カレルが、ティントレットやドナテルロや、他の悪魔が。シルヴィアの日記には、登場人物が多かった。カレルは青年になってから、碌《ろく》にシルヴィアと一緒にいなかった。彼女の側にはいつもあの男が付いていたし、あまり興味も無かったからだ。けれど、たまに二人の姿を見ると、必ず他に客がいた。精霊だったり、悪魔だったり。種族を超えて、何か惹き付けるものでもあるかのように。

 日記は終始、楽しい事で埋まっていた。そんな日記を最後まで読んで、カレルは何も書かれていない余りのページをぱらぱらとめくった。すると、最後のページから二枚目に、再び彼女の文字を見つけた。

 ―――自分を悪魔と名乗った天使は、ある時、可愛らしい女のこに出会った。彼は自分が、悪魔であることを彼女に告げた。けれど少女は恐れず、彼が来る事を喜んでさえいた。―――

 カレルはくすりと笑う。何かと思えば、物語の続きらしい。終わりも想像しやすい、単純なストーリーだ。

 ――悪魔はそのうち、少女の事を愛おしく思うようになった。

 きっとこの悪魔を、少女も好きなのだ。そして、天使に戻ってハッピーエンド。

 ―――少女も、悪魔の事を好きになってしまっている事に気づいた。そして二人は、互いの胸の内を告白する。悪魔は驚いた。少女は笑っていた。悪魔は少女に、自分が悪魔であることをもう一度言う。「知っているわ」少女はそう言うと、また笑うのだ。「関係あるの? 天使でも、悪魔でも、あなたはあなたよ」―――

 物語は、そこで終わっていた。ハッピーエンドだったのか、それともバッドエンドだったのかも書かれていなかった。その後二人がどうなったのかはそれこそ想像しなさい、という事なのだろう。
 カレルは最後のページをめくった。そこにまた、シルヴィアは何かを記していた。

 ―――カレル。あなたは悪魔だけど、天使の名を与えます。あなたもきっとわかってくれるでしょう。天使だとか、悪魔だとか。種族を超えて、守るべきものがあること。種族は関わりなく、抱く想いがある事。

 カレルは読んでいて、ふつふつと怒りを覚えた。何が天使の名だ。自分は悪魔で、悪魔であることを誇りに思っているというのに。弱い天使や、力を持たない人間とは違う。

「…はっ」

 カレルは嘲笑とともに日記を閉じた。生まれてきた悪魔に、天使の名をつけたシルヴィア。つまりは――。

 ―――つまり、悪魔である事を否定したかったんじゃねぇの?

 結局は、シルヴィアも人間だ。悪魔を生んだとなれば、罪悪感でも持っていたのだろう。それでなくとも、彼女は悪魔の血に生かされていることで、十分悪魔の恩恵を受けてしまっていた。神という存在がもしいるなら、そして死後、最後の審判が下されるなら、間違いなく地獄行きになるだろう。

「残念だったね」

 天使の名をつけた悪魔は、誰より悪魔の素質があった。その証に、悪魔の最高位、サタンになる実力を備えている。カレルは日記を乱暴に放り投げると、その部屋から移動した。放り投げられた日記は放物線を描き、元あったデスクの引き出しに、パタリと落ちた。

 カレルは閉じていた目を開いた。そこは念じた通り、ユキノのいる部屋だった。ユキノがこの里に来た四年前まで、殆ど使われることのなかった空間は、今や彼女のテリトリーと化している。そこかしこに残るユキノの匂いに眉根を寄せながら、彼女の眠るベッドを覗き込んだ。額に手を当てると、ユキノは少し身震いをする。

「…ん…?」

 寝ぼけた声を出すユキノに、カレルは口付けた。彼の唾液すら、悪魔のエネルギーを含んでいる。少しの熱なら、それだけで治ってしまうはずだった。けれど、最近はまったくその気配もない。ユキノの魂は瑞々しく輝いて、彼を誘っているようにも見える。

 血を飲めば、また魂は内に戻るだろう。カレルはわかっていた。そうやって、彼の母は命を伸ばしていたから。悪魔のエネルギーに適応した人間を、限界まで生き延びさせる方法。それはなんとも簡単だった。どこでもいい、身体の一部を傷つけて、その赤黒い血を、ユキノの口に流し込めばいい。外から吸収させるのはもう限界なのだろう。内から吸収させれば、また元気になる。

 カレルは口角をあげた。そうやってユキノを生きながらえさせても、カレルの得にはならない。どうしてそんな事を考えたのか、自分で自分がおかしくなった。




       -†-†-†-



「あらぁ。ユキノちゃんじゃなぁい?」
「お。珍しいな」

 一日中を家の中で過ごすのは、もう飽き飽きした頃だった。ユキノは熱も少し下がり、積も落ち着いた昼下がり、久しぶりに建物の外に出た。右を見ても左を見ても、同じような建物が続く。ユキノはいつも、迷ってしまわないようにカレルの家に目印を付け、あまり遠くには行かないようにしていた。

「あ、…えっと、ティントレットさんとドナテルロさん?」
「随分大きくなったのねぇ。あの時以来見てなかったけどぉ」
「あいつが隠してるんだと思ってたぜ。それか食っちゃったか。あ、そだ。遊びに行こうか」
「え?」

 突然のドナテルロの提案に、ユキノは驚く。けれど、カレルの友達の二人に遊んでもらうなど、滅多にある事ではない上に、ユキノは生まれてから、あまり遊んだ事がなかった。ドナテルロの誘いは甘い蜜のように、惹かれるものがあった。

「いいじゃなぁい。どうせ、カレルたんはどこにも連れていってくれないんでしょぉ?」

 ティントレットは相変わらず、美女然としていて、これが男にもなれるというのだから驚きだった。是非、その過程を見てみたいと思ったが、少し怖くもあったので言うのは控えた。二人の悪魔に連れられて、悪魔の里を見る。彼らの移動手段はもっぱら飛ぶ事で、最初に来た時、カレルが歩いていたのが不思議だった。

「カレルも飛べるのにね」

 ユキノを抱えても楽々と。なのにあの時は、しばらく掛かったにも関わらず、彼は歩いていた。ドナテルロは少し考えて、首をかしげた。

「そういえばそうだな。あいつ、まじで変わってんな」
「そのミステリアスな所が、いいんじゃなぁい」
「やっぱ、人間との混血だと頭の作りが違うのかな」
「え?」

 ドナテルロの発言に、またユキノは驚かされた。人間との混血。カレルの話をしていたのだから、カレルが、という事で間違いないだろう。そんな話はこれまで一度も聞いた事がなかった。そして、ユキノはカレルの事を、まったく知らない事に気がついた。もうここに来て四年になるというのに。

「混血って…ハーフって事ですよね?」
「ふふ。そぉなのよ。でもね、ユキノちゃん、悪魔と人間の子供でも、完全に人間か、完全に悪魔しか生まれないのよぉ」
「そ。子供自体めっちゃ珍しいけどな」

 二人は他愛もない話をしながら、ユキノをいろんな所に連れていってくれた。人間が珍しいのか、人里の話をすると驚かれる事が多かった。しかし、辺りが夕暮れに変わる頃、ユキノの身体はもう限界を訴えていた。

「…っケホ」
「見て! ユキノ。あれがこの魔の里で一番美味しい木の実よ」
「いや、あっちを見ろよ。」

 ユキノは楽しかったけれど、段々視界がぼやけてくるんがわかった。二人はそんな様子に気づいているのかいないのか、とても楽しそうにユキノに話しかける。そして、とうとうユキノは意識を飛ばしてしまった。




       -†-†-†-



「あ、いたわ」
「まじだ。カレル」

 カレルは丁度、彼の家から出て来た所だった。いつものふてぶてしい様子が影を潜め、焦っているようにも見える。

「何を慌てているのぉ?」
「別に」
「あぁんもう、連れない。そんなに急いで行か無くったっていいじゃなぁい」

 絡みつくようなティントレットを心底うざったそうに睨みつけて、カレルは羽を広げた。

「何か探し物か?」
「まぁね」
「ユキノなら森だぜ」
「あ?」

 カレルは初めて、二人の方を見た。彼の二つの色の瞳が、順に二人の悪魔に注がれる。ティントレットもドナテルロも、それまでのちゃらけた態度を正してしまう程の迫力だった。

「いや、こういうの、優しさって言うだろ? 人間ならどうすっか、俺等なりに考えたんだ」
「そうよぉ。森林浴? っていうの、させたらユキノも元気になるかしらってぇ」

 カレルは深いため息を吐いた。彼らは優しさを学ぼうとしている。かつてそれを彼らに与え教えた、シルヴィアのようになろうとしている。物好きとしか言いようがないが、変わり者でいえばカレルだって同じ穴の狢《むじな》だ。

「案内してくれる」

 カレルが言うと、二人は顔を見合わせてから頷いた。




       -†-†-†-



 寒くて、重くて、うめく自分の声が聞こえた。何かおかしい。けれど、これはきっと夢だ。目を開けたら、きっとカレルの部屋なのだ。ユキノは夢うつつの中、なんとか意識を現実に戻そうとした。そしてはっきりとした痛みに、目を開ける。

「…っ!? きゃぁ!」

 夢の中の事は、夢だと願った。けれどそんなものも儚く、現実は夢よりも厳しかった。ユキノを囲むようにして、多くの黒い影が集まっていた。ユキノを囲む輪はどんどんその規模を縮め、今にもユキノに襲いかかってきそうだ。

「…なに…? なんで…?」

 そうだ、自分は確か、ティントレットとドナテルロと共に、いろんな所を案内してもらっていたはずだ。彼らはどこなのだろう。

「ティントレットさん! ドナテルロさん!」

 いくら呼んでも、彼らの返事はなかった。その内、冷やされた身体が悲鳴を上げ始めた。こんな時なのに、身体がどうこう言っている場合ではないのに。ユキノは苦しくなる肺を呪った。

 ―――もっと、ちゃんと動いて…!

 死ぬのかもしれない。ユキノは指先や足先が冷たくなっていくような感覚を覚えた。このまま、何もかも冷たくなって、心臓さえ、その動きを放棄してしまって。ユキノはそう考えると、どうしようもなく怖くなった。こんな、わけのわからない所では死にたくない。

「―――っカレル!」

 これで最後というように、彼の悪魔の名を呼ぶ。そして、鋭い爪を持つ黒い手が、自分に迫るのを見た。




       -†-†-†-



 悪魔の名を、何かの救いのように呼ぶ声が聞こえた。カレルは二人を置いて、その声のした方へ急降下した。

 ―――血臭が…。

 ユキノの匂いに混じって、血の匂いがする。カレルは誰より分っていた。この血が、誰のものであるのか。

「どけろ!」

 怒鳴る様なことが、彼の生の中に今まであっただろうか。自分の声が反響する森では、鳥達が驚いて飛び立ち、獣達は巣に潜ってしまった。そして怒鳴り声を浴びた当の悪魔達は、彼が誰であるかを知って悲鳴に近い金切り声をあげる。

「言葉も忘れたの」

 ユキノの、あまりの匂い。あたりに立ち込めるこの匂いに釣られてやってきたのだろう。最早匂いに当てられ、魂に眩み、理性を手放してしまっている。

 なおも避けようとしない悪魔達を、カレルは凪ぎ払った。そしてこの騒ぎの中心、ユキノを見つける。きっと、悪魔一人対ユキノだったら、ユキノは今骨さえ残っていなかっただろう。けれど幸か不幸か、ここには大勢の悪魔がいた。多くの悪魔が獲物を取り合う事で、当の獲物は辛うじて、まだ生を残していた。瀕死であることに変わりはないが。

 カレルはユキノの側まで来ると、その周りに膜を張った。しばらくは、他の悪魔は近づけないだろう。そして改めてユキノを見て、その悲惨な光景に目を細める。

「…ユキノ? 死んでないだろ?」

 見た所、一番大きな怪我は脇腹だった。爪で引き裂かれたのだろう、その傷は流れ出した血で赤く染まっている。そして、自分を庇ったのだろう、腕や背中は、無数の傷でぼろぼろだった。ぐったりと横たわるユキノを、カレルは抱き起こした。まだ魂は身体を離れていない。きっと今ユキノを生かしているのは、彼女の力ではない。カレルが与えた、魔のエネルギーだ。

「……」

 カレルは結界の外を見た。彼らに、この魂はどう映っているのだろうか。至上の果実。幻の果物。喉から手が出る程、それを欲する気持ちはカレルにもわかる。現に彼も、ユキノが死んでいたら、その争奪戦に参加する所だったろう。けれど今、彼女はまだ生きている。カレルは、紫に変色しつつある、その小さな唇に自分のそれを重ねた。唾液を流し込むようにキスをして、その様子を眺める。外で、ティントレットやドナテルロが騒いでいるのが聞こえた。きっと、この状況を楽しんでいるだけだ。少しだけ、血の溢れる速度が治まった。ユキノはまだ、生きようとしている。

「……ユキノ。死ぬの?」

 カレルの問いに、ユキノは眉を寄せた。耳が聞こえるのか、カレルにはわからない。そもそもユキノは、彼がここにいることを理解しているのだろうか。わかっていないかもしれない、カレルがそう考えていると、ユキノのまぶたが震え、薄目を開けた。少しの間宙をさまよい、その瞳はカレルに定められる。

 その唇が微かに動いた。何かを伝えようとしているのに、声が出ていない。

「あ? 何」

 ユキノはもう一度さっきの言葉を言おうとした。けれどやはり、声が出ていない。けれど今度はカレルはそれを読み取る事ができた。ユキノの小さな唇が、一文字一文字魔法のように、カレルにその一言を伝えていた。文字は勝手に頭の中で変換され、ユキノの声で響いて来る。カレルは目を見開いた。そしてその刹那、結界が外のエネルギーに耐えきれず、破裂する音が響いた。気づくと、カレルの心臓にかすって、悪魔の爪が刺さっていた。カレルは苛立まじりに振り向くと、ユキノを庇いながら応戦体勢に入る。欲に狂った者達は、目を滾らせ獲物を見据えている。そしてそれの前に立つ悪魔に気づくと、攻撃の方向をそちらに切り替えた。

 カレルはさっきのユキノの言葉を、頭の中で繰り返した。そして、その言葉に応えたいと思っている、不思議な感情に気づいた。驚きは気の弛みを許し、このていたらくだ。カレルは一つ深呼吸をすると、力を手に貯め始めた。

 自分には理解できない感情だった。ついさっきまで、本当にそう思っていたのに。どこで狂ってしまったのだろう。彼女のたった一言で、自分の気持ちを知るなんて。ユキノの体調が悪化している事に気づく度、苦しくなることがあった。彼女の側にいれば、ノイズは聞こえない代わりに、その命の儚さに憂鬱になった。思えばもうずっと、それは胸の内に眠っていた感情だった。


 ユキノは息をしていた。小さな呼吸を繰り返す、唇がまた、微かに動いた。それは呪《まじな》いのように、それは決意のように、それは祈りのように。ただ一言を繰り返す。ユキノには見えていた。あの、少し意地悪な笑顔で彼女をからかう、カレルの姿。その姿に向かって、ユキノは唱えていた。ただ、彼に伝えたかった本当の気持ち。




『―――カレルが、好き』



 







   -BEASTBEAT 悪魔の天使-