月下福禄琥珀章

序幕 凛ノ追想


     月日というのは、私《わたくし》達のような者には本当に早う過ぎ行くものでございます。世話を頼まれた小さな背中を見ると特に、そう感じてしまいますわね。

    「凛ーー! 早く早く!」

     あれからもう、何年経ったのでしょう。小さかった春仁《はるひと》様が、このように走り回れるようになったのは、いつのことだったでしょう。

    「若様、そんなに急ぐと転んでしまいますわよ」

     いつかは、この小さな人も元服し、成人となれば私の主となるのでしょう。そんな日は、そう遠くはないのでしょうね。

     都から少し離れた山道、もう少し行けば、私たちの目的地が見えて参ります。真夏の陽はじわじわと辺りを焦がし、少し動くだけでじっとりと身を汗が伝う。

     こんな日には、あの時のことを思いだしてしまいます。

    「凛ーーー! 何やってるのっ早くしないと父様のお仕事終わっちゃうよ!」
    「はい、今参りますわ」


     あの日照りの続く夏の日、彼女は突然現れました。そして、突然いなくなってしまわれた。

     彼女の居なくなった日、あれは、久しぶりに雨が続き、都中が喜びに満ちているときでしたわ。


    『……凛、この和歌《うた》を知っているか』

     あの広いお屋敷の縁側、天の恵みと降り続く雨を見ながら、あの方はおっしゃった。

    『―――筑波嶺《つくばね》の みねより落つる みなの川 恋ぞつもりて ふちとなりぬる』

     その昔、陽成院貞明《ようぜいいんさだあきら》様が後朝《きぬぎぬ》の文として奥方様に贈った和歌《うた》。あまりにも有名なその和歌を口にしたあの方を見て、私は思ったのです。

     あぁ、どうか、彼女に届きますようにと。