第二幕 式神
靖伴はびっしりと文字の書かれた人形《ひとがた》の紙を取り出し、静かに掲げた。
「我が呼びかけに応じよ」
靖伴が呟くと、紙がひらりと手から離れ、螺旋を描きながら上へと上がって行く。そして、一筋の光となると、その中から一人の女が現れた。長く黒い髪を後ろでしばり、靖伴に深く頭を下げる。
「お久しぶりです」
「あぁ」
顔を上げた女は年の頃は三十ばかり。眉の下がった優し気な印象の目元に、うっすらと色づく唇は優雅に曲線を描いている。上品そうな立ち居振る舞いは、世の女の鏡のようだ。
「若様がお呼びなんて珍しい。何かありまして?」
「一人、女の面倒を頼む」
「まぁ、女の人…」
靖伴の屋敷に、女が居るなどということこそ珍しい。女は何か意味ありげに微笑んでから、再び深く頭を下げた。
「承知致しました」
靖伴はこの女の式神の事が苦手だった。父である土御門有親《つちみかどありちか》から貰い受けたのだが、父のそのまた父も、そしてその父も。いったいいつの時代から受け継がれているのかは謎であった。
式神とは、特別な呪術によって、紙に命を吹き込んだもの。命と言っても、あくまでヒトが作り出した擬似的なものでしかないのだが、長く使われて来た式神ともなると、それがまるで人格でもあるかのように話をすることもできる。
「……いったい、いつから食ってなかったのさ」
銀は、自分の分の食事をも差し出して、目の前で勢い良く物を口に運んで行く日和を見ていた。
「ふぉふひゃっはらふぁへふぁ」
「あーいい。いいからちゃんと食ってから話せ」
その華奢な身体のどこに仕舞われたのかは謎であるが、日和は結局約四人分の食事をすべて平らげてしまった。丁度その頃を計ったように、満腹に腹をさする日和のいる部屋の前に女の影が現れた。
「失礼します。入ってもよろしいでしょうか」
「え? あ、はい…」
銀と日和は目を見合わせ、その来訪者を見上げた。女はにこりと微笑むと、日和の前で座り、頭を下げた。
「靖伴様より仰せつかり、身の回りをお世話させて頂きます。名を凛《りん》と申します。以後お見知りおきを」
八年ほど靖伴と暮らしている銀も、実際に見るのは初めてだった。靖伴はあまり、女形の式神を使わないし、銀のような従神と呼ばれるものも他にいない。そもそも、この屋敷の事はほとんどを銀一人でやっているので、他の式神を使うのは仕事を肩代わりさせる時や、複雑な術を使うときだけだ。
まじまじと見ていた銀に気づき、凛はふわりと笑いかける。見た目は子供であるが、本当であれば成人である銀は、この生活のおかげで女性に免疫があるわけもなく、どうすれば良いかとたじたじしてしまった。
「あ、あの…私、自分のこと、ちゃんとできますよ…?」
日和は、凛に向かい、遠慮がちにそう言った。
「失礼ですが、そうは見受けられません。女性はもっと身ぎれいにするべきです。さぁ、お風呂に入って頂きますわよ」
それまで上品に笑っていた凛は、日和を少し見てそう言い放った。笑みを崩さない口元が、静かな迫力を与えている。
「えっあの、私お水が苦手で…っ!」
「問答無用!」
凛に引きずられるようにして、日和がわぁわぁと去っていく。銀は、勝手の違う日常が来た事を、諦めるようにため息をついた。
「…まぁ、随分見違えましたわね」
ぎゃぁぎゃぁと騒ぐ日和を物ともせず、凛は手際良く風呂へと彼女を放り込んだ。日和は頭の天辺から足の爪先までぴかぴかに磨き上げられ、凛の為にと用意してあったものの、使われる機会の無かった真新しい着物を着せられ、先ほどの小汚い娘はどこへやらの大変身を遂げていた。元々整った可愛らしい顔立ちをしている日和だが、風呂に入ったためか今は頬もうっすらと色づき、化粧気はないが清らかな美しさを称えている。琥珀色の瞳と髪が異人のようではあるものの、「ヒト成らざるもの」であるのは凛もお互い様である。
「……わぁ…これ、私?」
凛に鏡の前に連れて来られ、自分の姿を見た日和は感嘆の声を漏らす。嫌いな水に耐え、わけもわからず泡だらけにされたけれど、確かに見違える、というか見た事のない自分がいた。
「若様にも見せてあげましょう!」
「えっええ!?」
凛は衣装部屋から日和を連れ出すと、ある襖の前で足を止めた。
「凛です。入りますわよ」
中からの返事を待たずに襖を開けると、靖伴は部屋の机の前に座り、何やら書を書いている所だった。
「見て下さい。ほら、日和様」
「えっちょ、あの…!」
凛の後ろで何かもじもじとしていた日和を、凛は引っ張って前へと出した。顔をあげた靖伴とまともに目が合い、日和は一瞬にして赤面してしまう。
「ちょっ、わ、わわ私! 用を思いだして…!」
いつもと違う、綺麗になった自分を見られていることが恥ずかしく、耐えられなくなった日和はそんな下手な言い訳をして部屋を出ようとした。しかし、それを凛は容易く引き戻し、靖伴の隣に無理矢理座らせてしまった。
「何言ってますの。若様が女性をお連れする、しかも屋敷にお招きするなんて滅多にないことですのに。では邪魔者は退散致しますわね」
凛は早口にまくしたてると、「ごゆっくり〜」などと鼻歌まじりに部屋を出て行ってしまった。時刻はもう夕方に差しかかり、少しだけ開けられた明かり取りの窓からは橙色の陽が差し込んでいた。
「………」
「………」
勢いに任せて突撃しにきたものの、その後の展開など全く考えていなかった日和は、思わず訪れた二人きりと言う場にしどろもどろで話をするどころではない。靖伴はと言えば、先ほどまでしていた書を片付けていた。お互いに何も言わぬ時間が、どれほど過ぎたのだろうか。日和はついに意を決し、頭をあげた。
「あの、先生! わ、私、流れで上がり込んでしまったんですけど…あの、ご迷惑にならないうちに帰りますから! あっもうご迷惑かもしれないですけど…」
自分で言って、悲しくなっていく日和は、語尾のほうの声がどんどんと小さくなっていった。最初の勢いはすっかり失せ、ただ恐縮してしまっている。
「……聞きたい事はままあるが…」
「! はいっ何でも仰ってください!」
靖伴が口をきいたことでまた弾かれたように顔をあげた。いつの間にか片付けは終わり、靖伴は日和のほうに面と向かうようにして座っていた。足を崩し、立てた膝に肘をのせ、その手で顔を支えるように。正座して畏まっている日和とは、随分と差がある。
「何をしに来た」
「はいっ結婚しに、です!」
何の戸惑いもなく答える日和に、靖伴は大きくため息をついた。
「…お前、結婚がどういうことかわかってないだろう。本当は何をしに来たんだ」
靖伴の言葉に、きょとんと首を傾げる。日和は乗り出し気味だった身体を戻し、姿勢を正した。
「はい。ご恩返しに参りました!」
靖伴の眉間の皺が、更に深くなる。日和は酷く純粋な瞳で、靖伴をまっすぐに見つめている。夕日をその中に取り込んで、きらきら輝く琥珀色。その瞳に、靖伴は少し視線をそらした。
「……」
「先生? どうかしました?」
靖伴はただいつもの気難しい顔で何かを考えている。日和は靖伴の返事が無い事に少し肩を落とした。
「……あの、では、私そろそろおいとまします。……あの、また来てもいいですか…? あと、私の着物はどこに…」
日和は立ち上がると、襖に手をかけた。けれど、いつの間に立ち上がったのか、靖伴が後ろから、その手を止めた。
「……いや。どうせ、行く所もないのだろう」
「え?」
「好きなだけ、ここにいて構わない」
「…え、……えぇ!?」
日和はその言葉に振り返り、靖伴の首に、勢いよく飛びついた。
「本当ですか! 私っ頑張りますね!」
少しよろけながらも、日和を受け止めた靖伴は、きゃぁきゃぁと騒ぐ日和をなだめるのをあきらめ、彼女の好きなだけ、抱きつかせていた。
「なんだか疲れていたみたいですわね。すぐにぐっすりとお休みになられましたわ」
陽がすっかり沈み、月明かりがさす縁側で、靖伴は静かに佇んでいた。側に控えるのは、日和を客室に案内し、戻ってきた所の凛だ。
「…そうか」
真ん丸より少し欠けた月は、悲し気に光り、靖伴の表情を隠している。
「聞いてもよろしいのかしら。彼女、何者なんですの? 少し、人間とは違う空気を感じますけれど」
靖伴は空を見上げたまま、日和と出会った夜を思いだす。
―――ご恩返しに参りました。
酷く、頭が痛かった。アレは、恩などではない。ああして、ヒトの姿を取れるようになった彼女を見て、わかってしまった。
「まだ元服する前、実家の近くに小さな社《やしろ》があった」
靖伴は、今も鮮明に残る記憶を、ぽつりぽつりと語りだした。夏を知らせる虫達は、この時ばかりは鳴りを潜め、まるで彼らも靖伴の話を聞きたいとでも言うかの様な、不思議な静寂だった。