第九幕 罪悪
日和は午前中のお手伝いを終え、裸足を投げ出すようにして、縁側に腰かけていた。この屋敷の中には、障気は入って来ない。力の弱い雑鬼など、近づく事すらできない。清廉な空気の中、空を見上げた。
「……先生、大丈夫かな…」
かさりと、葉の揺れる音がする。日に当たりすぎて色の抜けた葉にぼんやりと目をやれば、そこに鮮やかな黒が現れた。靖伴は持っていた瓶かめの中にあった水を木々にかけると、縁側のほうへと歩いて来た。
「! 先生…!」
朝日が昇るのと同時に出かけた靖伴が、日和の横を通って中へと入って行く。
「先生、待って…っ」
靖伴を追って中へと入ると、彼は振り返り、腕を日和の方へと伸ばした。日和がどきりとして立ち止まると、ひんやりとした指先が、頬を少しなぞる。すぐに引っ込んでしまった腕に名残惜しさを感じつつも、疑問の浮かぶ顔で見上げると、靖伴はあきれたようにため息をついた。
「頬が火照る程、陽を浴びるな」
そう一言言いおいて、靖伴は背を向けて行ってしまう。惚けるように彼を見つめていた日和は、再び置いていかれぬように後に続いた。
「あのっあの! 先生!」
靖伴はずんずんと進んで行くので、日和は着物の裾を持って小走りに追いかけていた。着いたのは靖伴の衣装部屋で、銀が既に香の準備をしていた。凛は靖伴の仕事の道具を隣にある道具部屋へと閉まっている所だった。銀は靖伴に気づくと、冠を受け取る。
「あのっ先生、私っ」
しゅるしゅると、靖伴が帯を解いて行く。
「日和」
「え、あ…!」
靖伴を見ると、今にも上の衣を脱ごうとしている所だった。
「えっ! あの…、っわわ私っ先生がよろしければ…っ不束ものですが…っ」
「何を言っている」
「え…?」
目をぎゅっと瞑っていた日和は、靖伴を改めて見た。靖伴はまだ衣を着ていて、腕を組んであきれ顔だ。そして、隣に控えている銀も同じ顔をしている。
「着替えるから、出て行きなさい」
「あ……す、すみません!」
日和は慌ただしく部屋を出て、扉をビタリとしめた。
「ふふふ。若様も隅におけませんわね」
隣の部屋から出て来た凛が、楽しそうに去って行った。日和は靖伴の衣装部屋の前で動けずに、彼が出て来るのを待っている。どうしても、聞いてほしいことがあった。昨夜銀に教えてもらったこと。式神は紙から。そして、従神は生物から成るのだということ。昨晩突然浮かんだすばらしい案を、早く靖伴に伝えたかった。
「あれ、日和、まだいたの?」
半笑いの銀の言葉に、顔をあげると、衣替えをした靖伴が銀の後ろに見えた。銀は苦笑を残したまま、靖伴しか見えていない日和の横をすり抜ける。
「先生、あの…私」
浴衣を着流した靖伴が、日和を見る。
「私を、先生の従神にしてください!」
すばらしい考えだった。銀は確かに、従神とはもとは生物だと言っていた。普通は鳥や猫を使うのだとも。従神になれば、靖伴と繋がることができる。そして、靖伴によって力が与えられれば、凛のように仕事の面でも役に立つ事ができるだろう。きっと彼もこの考えを歓迎してくれるはず、そう思い、意気揚々と告げたその言葉は、靖伴の表情を奪った。
「……お前」
ざわり、と背筋に寒気が走る。日和は背を正した。期待と希望に満ちていた胸に、冷たい鉛が落ちたよう。全身の毛が逆立つような威圧感に、一言も発することができない。
「……軽い発言は慎みなさい。俺は二度と、従神は持たぬ」
「………え……」
黒水晶のような輝く瞳が、今は日和を蔑むように細められていた。その目のあまりの力に絶えきれず、日和は前に合わせていた手に視線を落とした。自分の手が、震えているのが映る。
「あ……あの、ごめん…な、さい……」
なんとかそう絞り出すと、靖伴は日和の横を抜けて部屋を出て行ってしまった。廊下を遠ざかって行く足音がやけに大きく感じた。音が聞こえなくなってからも立ち尽くす日和は、どのくらいそうしていただろうか。しばらくして、手に落としたままの視線の先に、人が立っている事に気がついた。少し視線を上げれば、靖伴よりも前に出て行ったはずの銀が戻っていた。
「…大丈夫かよ? 震えてるけど」
銀は、からかうような口調で、けれど、とても優しい声で言葉をかける。未だ震える日和の手の上に、その小さな手をのせた。
「……銀……」
「なに?」
日和は、その琥珀色の瞳がこぼれ落ちてしまいそうなほど、目を見開いて。
「先生…怒ってた…」
あんなに感情をむき出しにして、怒っている姿など見たことがない。静かな怒りに空気が張りつめ、息ができない錯覚すら覚えた。日和の震えている手を、銀の手が、今度は力強く握った。
「日和」
「……?」
銀は、その小さな身体で一生懸命、背伸びをし、日和に強く語りかけた。
「先生は、あんたに怒っていたんじゃないよ」
日和は銀の言っている意味がわからずに、不安な瞳を泳がせる。
「先生は、自分に怒っていたんだ」
「……え?」
銀の、その真剣な表情を、日和の琥珀が見返している。眉を寄せ、不安を滲ませるその瞳に、銀が映る。日和が少し落ち着いたのを確認すると、銀はまた、先日見せたように、どこか悲し気に微笑んだ。
「先生はさ、俺を従神にしたこと、後悔してるんだ。……すごく。今でも、その時の自分にあんな風に憤るほど。だから、日和がいくら頼んでも、従神にしてくれることはないと思うよ」
日和は、銀になぜ、とは聞けなかった。銀の辛そうな笑顔が、今にも崩れてしまいそうに見えた。
「珍しく、気が立っておいでですわね」
凛の、鈴の音のような笑い声が、静かな室内に響いた。私室で手紙を書いていた靖伴は、途中で筆を置くと、今迄書いていたものをくしゃりとまるめてかごに入れた。屑入れには、そのように書き損じて丸められた紙がいくつも入っている。凛はくすりと笑うと、襖の横に腰を下ろした。
「……凛」
「はい」
「朝廷から出仕令が出た」
「まぁ。お受けになりますの」
朝廷にも幕府にも、特別に仕えているわけではないと言っても、朝廷直々の出仕令を無視するわけにもいかないことは、凛も承知している。半ばからかうようなその問いに、靖伴は小さくため息をついた。
「仕方あるまい」
未だに雨降るあての無い空は、今夜も雲一つなく広がっていた。満天に瞬く星々が、今は余計にむなしくさせる。ただ、雨を乞う。それだけの願いが、こうも叶わぬこともまた、世の中の不条理の一つだろうか。流行病での死者、餓死者の出ている都に赴く度、近づく飢饉の気配は色濃く足下にまとわりついて来るようだった。否、もう、飢饉と呼べる状況に入って来ているのかもしれない。いくら祓っても都全体を覆うどんよりとした障気は、すぐにまた何かに引き寄せられてしまう。負の連鎖は、なかなか断ち切れないものだ。それこそ、天をも動かす様な事でもなければ。
「そう言えば、幕府の渋川様のお立場は、ますます怪しくなっているようですわね」
「……特に、興味もない」
「ふふふ。左様で」
靖伴は、再び失敗した手紙をくしゃりと丸めた。そのまま続きを諦め、立ち上がり窓際へと移動する。黒水晶のような瞳は、窓の外に広がる暗闇を見ているのか、それとも、彼にしか見えぬものがあるのか。過去なのか、はたまた未来か。凛はこっそりと微笑むと、部屋を辞した。空には変わらず雲の一つも見えぬまま、ただ暗闇が広がっていた。