月下福禄琥珀章

第五幕 病



     その日、未だ障気は残っているものの、大分薄くなった屋敷で、盛大に持て成された靖伴、日和、凛は、それぞれに客間を与えられ、そこで一晩泊まることになった。

     靖伴と凛はいくら酒を飲んでも普段と変わらずけろっとしていたが、生まれて初めて酒というものを口にした日和はそうはいかなかった。足元がふらつく日和に見かねて、凛が部屋へと送っていったのがつい先刻。けれど寝る前に厠へ行こうと起き上がった日和は、帰りに自分の部屋がわからず、広い屋敷で迷子になってしまった。

    「……えーーー…? ここ、どこ……」

     より人気のないところに迷い込んでしまったようで、誰かに聞こうにも誰にも会わない。日和は心細さに半べそをかき、千鳥足《ちどりあし》のまま庭へと出た。今日も雲ひとつない快晴の空で、夏の虫たちの声が幾重にも聞こえている。靖伴の屋敷のような澄んだ清らかな風はここでは吹いていないが、それでも気を紛らわすことはできた。酔いと火照りも冷ましてから動こうかと庭をふらふらとしていると、後ろから声がした。

    「おい、何をしている」

     よく知る声に、跳ねるように振りむくと、そこにはやはり靖伴が立っていた。夜着の浴衣をゆるく着流し、胸の前で腕を組んでいる。いつもは後ろで結んで肩につかないように折っている髪の毛が、下されていつもよりも色気が増しているような気がした。

    「あ…えっと…、つまり…あの、ですね…」

     日和はうまいいい訳も思いつかぬまま、見透かすような視線に耐えきれず後ずさりした。

    「おい、…おいっ後ろ、池だぞ」
    「えっきゃ…!」

     ふらふらとおぼつかない足で後ろへ下がっていた日和は、池のふちに置かれた岩につまづいてしまった。そのまま後ろへ倒れ、池へと落ちる、そう思って目を瞑る。が、いつまでも冷たい水の感覚は訪れなかった。

    「………お前、なんでそう……」

     大きくため息をついた靖伴が、至近で日和を見下ろしていた。呆れた、と顔にはっきりと書いてあるが、その腕は優しく日和を抱きとめていた。

    「…あ……、あの、ありがとう、ございます…」

     心臓が、どくどくと動く。いつもよりも早く脈打つ血管が、酒を全身へと運んで行く。全身が熱いのは、酒のせいか。それとも、このなんともおいしい状況のせいか。靖伴は日和を安全なところに立たせると、腕を放そうとした。けれど、日和は靖伴の浴衣をつかんだまま放さない。

    「……何だ」
    「あ、……えーーーと………」
    「……放せ」
    「………。…いや、です…」
    「……」

     しばらくの沈黙に、虫の音だけが響いていた。

    「酔っ払いめ」

     靖伴は、またも盛大なため息とともにのたまった。う、と一瞬日和はひるんだけれど、ここ一番のチャンスである。大きく息を吸い込むと、つかんでいる胸元に向かって一揆に吐きだした。

    「……わ、私、じゃ、先生のコイビトに相応しくないことは、わかってるんですけど…! でも、…でも、すきなんです…!」

     酔った勢い、とでもいうのだろう。屋敷に来て数日、靖伴に対してどこか遠慮気味であった日和が、このようにはっきりと言ったことは、少なからず靖伴を驚かせた。早鐘の如く脈打つ心臓は、もはや爆発寸前。日和にとっては永遠にも思えるような数秒ののち、日和は頭上で、密かな笑い声を聞く。

    「……?」

     日和が頭を押し付けていた胸元から顔をあげると、靖伴は自分の口元を押さえ、肩を震わせている。

    「え…、え? もしかして、笑ってます…?」

     いつも不機嫌そうにしかめられているその顔が、歪んでいる。綺麗に磨かれた黒水晶のようなその瞳が、少しだけ細められて。口元は手に覆われて見えないが、それが本当に口惜しい。きっとその薄い口元を、弧にしていることだろう。

    「……煩い」

     靖伴は油断して緩んでいた日和の手を離すと、きびすを返して行ってしまった。去り際に頭をくしゃりとなでられた。それだけで、日和がどうなるかなど、十分わかっているくせに。

    「〜〜〜〜っもう…ほんと、ずるいです…」

     子猫の時、人間の酷い仕打ちに逃げ回っていた日和は、同じく人間の少年に助けられた。魘≪うな≫される度に撫でてくれた大きな手のひら。目をあけると、温もりとともにそこにあった綺麗な少年。十年と少し、情は月日とともに強く胸焦がし、やがて恋情へと移り変わる。それに呼応するように、この身体を与えられた。

     神様仏様精霊様。人間と成った日和が靖伴と再び見合ったその日、日和はこの世の理に感謝した。太陽と月、二つの力を受けた彼女が人間へ化けるほどの月日が経っても。彼はあの日の小さな猫と、わかってくれるような人だったのだから。


     ーーー呆けるように余韻に浸る日和が、自分が道に迷ってここにいたのだと気づくのは、もうしばらくあとの話。










     朝になり、出された朝食を食べ終えた日和は、靖伴を探していた。すると、橘の末娘、貴子の部屋の前で座っている凛を発見した。

    「あら、日和様。昨日はよく眠れました?」

     本当に、凛は日本の女性として、見本となるような人だ、と日和は思った。ゆるく微笑んだ凛は、そこに座り、ただ待つ姿でさえ、絵葉書をに添えられそうな清らかな美しさを持っている。それに比べ、自分はどうだろうか。色素の薄い瞳。それと揃いの色で、なかなか伸びない髪。凛の艶やかな黒髪を、自分も持っていれば、少しは靖伴の気を向けることもできるのだろうか。

    「日和様?」

     考えにふける日和に、凛がもう一度声をかける。日和ははっとして、本来の要件を思い出した。

    「あ、えっと…先生、見ませんでしたか? 朝からお見かけしてなくって…」

     凛は目を少し見開くと、すぐに微笑んで襖の中を指した。

    「誰かにお聞きになってこられたのではないのですね。若様はこちらにおいでですわ。ですが…」
    「え、本当? 入ってもいいかな。先生?」
    「あ、ちょっと日和様、今は」

     日和は、襖の中からの返事も待たず、中をのぞいてしまった。

    「あ、先生」

     探し人を見つけ、声にも乗るほどの嬉しさは、靖伴の姿が屈んだことでかき消えた。

    「……」

     靖伴は、小さな赤く見える紙を口にくわえ、何か印を結ぶと、そのまま、未だ病床に寝たままの末娘、貴子の口元へと屈みこんだ。

    「……え…」

     凛は、襖をあけたまま固まる日和に、ふぅとため息をついた。だからお止しましたのに、という呟きも、彼女の耳には入っていない。
     唇が重なったのが見えたあと、それが、どれほどの時間だったのかもわからない。気づくと、靖伴がのぞき見たままの日和の前に立っていた。

    「日和、邪魔だ」
    「え、……あ、すみません…」

     靖伴は、凛が控えていた昨夜使った壺の中に、黒く染まった紙を入れた。それがさきほどまでは赤かった、あの紙だと理解するのに数秒かかったが、日和は用を終え、移動しようとしている靖伴の袖をつかんだ。

    「あの…! な、何をされていたんですか…」
    「?」
    「あ、あの、…たた、貴子様に口づけを…」

     半べそをかきながら訴える日和に、「はぁ?」という表情の靖伴。彼は日和の手を放させると、凛に目配せをする。凛が肩をすくませると、大きくため息をつきながら行ってしまった。

     凛は背中を見送る日和のあまりのしょんぼり具合にくすくすと笑いだした。目に涙をため、すがるように凛をみる日和の頭をなでてやる。

    「ふふふ、別に、深い意味があってしたんじゃありませんわよ。昨日払い切れなかった身体の中を蝕んむ障気を、特別な紙に封じるための術をされたまでですわ」
    「術…で、口づけをするんですか…」

     それまでのしょんぼりが一転、唐突に輝きだした。「それなら私も障気に犯されたい」口に出さずとも、顔に書かれた正直な希望は、凛をことさらに苦笑させた。








     その日、夕刻まで続いた障気の元探しは、井戸の近くで見つかった古い人形によって終わりを告げた。呪詛具のために編まれた人形は、藁で出来ており、丁寧に血で橘の家紋の書かれた布が巻かれていた。それ自体は強く障気を吐きだすものではなかったが、少しずつ障気を放ち、かつ陰気を呼び寄せるような呪詛がかけられていた。

     なにはともあれ、元凶のものを封印し、屋敷中の障気を払った靖伴一向は、橘家総員の大恩人となったのである。末娘、貴子もすっかりよくなり、昼には立って歩けるようになっていた。その夜も盛大な宴がもたれ、屋敷中が浮かれあがっていた。




     翌朝、靖伴と凛、日和が帰り支度を済ませ、屋敷のものどもに送られ屋敷を出ようとすると、最初に訪れた女がばたばたと現れた。

    「靖伴様! お待ちください!」

     相当に急いだのであろう、女は彼らに追いついてからもしばらく息を整えるのに時を要した。

    「どうした」

     女はやっとのことで言葉を紡ぐ。

    「っ…は、あの、幸彦様の容体が…!」

     幸彦というのは、娘ばかりが生まれた橘の長男である。まもなく元服を迎える、橘家待望の男子であった。いずれは当主となり、橘を継いでゆくものである。

    「……案内を」

     女に案内され、幸彦の部屋の襖をあけると、そこには苦しそうにあえぐ少年の姿があった。日和は、息も荒く全身から汗をかく少年の側によると、その手をとった。

    「……苦しそう…。先生」

     何も心配はいらない、ここにはすごい先生がいるんだから。そういう気持ちで見上げた日和に、靖伴は首を振った。

    「これは、呪詛ではない」
    「え…?」

     屋敷の者も、靖伴に注目している。彼の陰陽師としての技量は、もはやこの屋敷の者であるならば疑う余地もない。早くこの呪いを払い、幸彦を元気にしてほしい、そういう願いが、まっすぐに靖伴に向けられていた。
     靖伴は、その視線にひるむこともなく、また残念がる様子もなく。ただ淡々と、事実のみを述べた。

    「これは、都を犯す病の一つ。呪詛ではないものは、管轄外だ」

     彼女が意味を飲み込むのに、しばらくかかった。もう用は済んだとばかりに部屋を出て行こうとする靖伴を、日和は引き留める。

    「…っでも! 先生は私を救ってくださったじゃないですか!」

     靖伴は日和の言葉に立ち止まると、振り向かぬままに言い放つ。

    「あのときは、幼かったのだ」

     日和には、いよいよ意味がつかめなかった。傷を負った自分を、まだ少年だった彼は助けてくれたのに。確かに呪いを受けてはいたが、呪詛を払ったあとの傷は、何か靖伴が術をかけてくれたからこそ治ったのだ。だからこそ、こうして生きているのだ。彼の言葉でいえば、あれも管轄外だったろう。
     日和は自分の左腹を押さえた。その場所に今も残る、当時は赤く熱をもっていたが、今は黒いあざとなっているもの。それは、靖伴が自分を助けたという証。

    「うう…ん…あ、つい…、た、すけ…」

     魘される少年の声が、やけに耳に残る。このような年だった。初めて日和が見た靖伴も、このような少年だった。日和は再び、少年の側に跪いた。火照るように熱いその手をとり、泣きそうな顔で微笑んだ。

    「きっと、助かります。頑張って…!」

     凛は、日和を見守っていた。そして、靖伴が出て行ったときのまま、そこに立ちつくす屋敷のものたちの落胆を見ていた。この世の理とはなんとも無情。人間というちっぽけな力では太刀打ちできるはずもない。
     
    「(日和様の純粋な思いは、かつて、靖伴様も持っていたもの。ーーー今も、持っていないわけではないのです。ただ…)」

     凛は目を伏せた。当代随一の陰陽師、土御門靖伴にかかれば、たとえばここに息も絶え絶えに横たわる少年を元気な姿に持ち直すことも可能であろう。けれど、代償は大きい。それは、優しさゆえに今も苦しむ靖伴にとって、耐えがたいものであることに間違いないのだから。
     重苦しい室内には、苦し気な幸彦の声がやけに響く。日和は泣きそうな顔で励ましていた。自分の無力と、このような幼い子供に襲いかかる、悲しい運命を嘆きながら。