第六幕 木の下闇
靖伴の屋敷に橘の使いの者が現れ、幸彦の訃報を伝えたのはそれから数日が経った日だった。相変わらずじりじりと身を焦がす太陽を受け、意気揚々と表門での客対応を買って出た日和は、その場に立ちつくした。
「日和、何してんだよ。遅いから見に来て…って、え!? え、ええ? なんで泣いてんだよ!? …えーーー…?」
重力に従って流れる雫は頬を伝い、その琥珀色の瞳からぽろぽろと零れ落ちた。銀はただうろたえ、ついに膝をかかえるようにうずくまった日和の背をさする。
「もーーー…どうしたんだよ〜。泣くなよ〜」
銀は、泣き続ける日和の側でしばらくの間そうしていた。やがて日和が落ち着くと、買い物を済ませて帰ってきた凛とはち合わせた。
「やっこれは! オレが泣かせたわけじゃないからな!」
日和を泣かせた原因の濡れ衣を逃れようと必死になる銀に対し、凛は落ち着き払っていた。
「……日和様。報せが届いたのでしょう?」
銀は日和に手をかし立たせると、凛の言葉に察しがついたのか、それ以上は口をつぐんだ。促され、こくりと頷く日和を、凛が付き添い中へと入れる。
「残念なことですけれど、あなたが悔しがることではありませんわ。この世は不条理にできているもの。それはあなたも知っていることでしょう」
不条理。条理に叶わず、この世は流れゆくもの。それは、確かに日和も理解しているのだが。どうにも解せないのは、なぜ靖伴が見捨てるように少年を置いて立ち去ってしまったのか。
「まだ、靖伴様に納得できませんの」
納得できない、ということなのか。日和は自分の中のもやもやとした感情がわからなかった。ただ、全幅に信頼していたことに対する失望感。せめてもっと、何かできることを探すことはできなかったのだろうかと。
しばらくして、もんもんとした気持ちのまま縁側を歩いていると、食材を両手にかかえた銀とはち会った。小柄な銀の手にはあまる食材を、日和は半分引き受けた。
「さんきゅー! 助かった!」
台所にしまいこみ、礼を言う銀に、日和は力なく微笑む。その様子に、銀はこほんと咳払いした。
「先生なら、裏山の丘にいると思う。行って、話してこいよ。日和が元気ないのが原因なのか知らないけど、このところ先生も陰気なんだよな〜。オレまでどんよりすんだから、早く仲直りしてこいよ!」
日和には、銀の言っていることは半分ほどしか頭に入ってこなかった。だいたい、喧嘩をしているわけでもない。ただ日和が勝手に、もんもんと憤っているだけで。しかし銀に背中を押され、裏山へと向かう。なだらかな坂を登れば、見晴らしのいい丘が見えてくる。そこに、靖伴は確かにいた。
「……先生…」
靖伴は日和に気づくと、足元の悪いところで手を差し出した。その手を借りて靖伴のいた場所までくると、陽に光る都が見えた。瓦屋根が光を乱雑に反射させ、まるで光の町である。
「……ここからは、人の動きや、その営みは見えないが」
ただその景色に呆気にとられている日和に、靖伴が語りだした。
「光あるところに影ができる、その理は、はっきりと見える」
光あるところ、必ず陰ができる。それはこの世のもっとも単純な摂理。確かに、木々のてっぺんは光を受け、その足元には陰が見える。建物もそう。きっと、今は見えない人にも、同じように。
「…確かに…」
靖伴にしては珍しく、歯切れ悪く言葉を切った。けれど、まっすぐに見上げる日和に観念するように、息をはく。
「確かに、昔お前に使ったように陰陽の力を集める術を使えば、あるいは、銀に施したように、従神としての生を与えれば、何かは変わっていたかもしれん」
先ほど届いた報せを、靖伴は知っているのだろう。凛か、銀か。あるいは他の術で。
日和は、靖伴の言っていることをすべて理解しようと努めていた。自分は学がないから、陰陽の道はわからない。だから、靖伴が話す陰陽道がすべてだ。そう思いながら。
「本来、生物に使うべき術ではないものを使い、生来あるものを歪めてしまった。銀にしても、その生を今も縛り続けている。それが、本人の望む望まないにかかわらず、陰陽道に背くものであるとも知らずに」
日和は、いつもの気難しそうな表情がなおさら暗く沈んでいることに気がついた。この削り取られるような暑さの中、何時間も外で都を眺めるような。そんな風に自分を戒める。そんな傷つき方を、この人はするのだと気がついた。日和は靖伴が、自分が人に化けるようになったことを悔やんでいることを初めて理解したが、今度は少しだけ腹が立った。
靖伴の頬は日差しのせいで少し熱を持っていた。日和はその頬に手を伸ばす。
「……一人でいじけてて、ごめんなさい。先生にも、できないことは、ありますよね」
嫌がる素振りもないので、両手を首へ回した。大胆なことを、している自覚はあった。けれど、何かに突き動かされるように自然に、そうしていた。
「私は、助けてくれたこと、本当に感謝してますし、人間の姿になれたらと、天に祈っていたんです。先生の術のせいじゃ、ないかもですよ」
日和は背の高い靖伴の首を引き寄せ、自分は背伸びをして、その唇に口づけた。触れるだけで、一秒と持たず離れた温もりに、突然日和はあわてだす。
「つっつまりっ! 人間の姿になれてハッピーです! ついでに先生のお嫁さんになれたら更に万々歳です! 以上!」
脱兎のごとくその場から逃げ出そうとする日和の腕を、靖伴がとった。
「わっ! えっ!?」
靖伴はしばらく何かを思い悩んでいたが、一度ふっと息を吐きだすと、日和に向かって口元を引き上げた。優しい黒い瞳が、日和の琥珀をさらう。
「お前、馬鹿だな」
くしゃりと頭をなでると、靖伴は前を歩いていく。そして振り返り、日和を待っていた。日和は笑顔の余韻からはっと覚めると、満面の笑みで走り寄った。
「わ、いきなり真っ暗ですね!」
帰り道、行きでは気づかなかったが、陽の照る丘から山道へ入ると、太陽が木々の葉に遮られ、真っ暗と感じるほどであった。
「……木≪こ≫の下闇、か」
「え?」
だんだんと目が慣れ、靖伴の姿もはっきりと見れるようになった。彼は立ち止り、木漏れ日の差す木々を見上げていた。彼がただそこに立つだけで、世界のなんと豊かなこと。木々や夏虫さえもが、彼の美しさに吐息を洩らしているのだろう。
「ここからは、この世の理が一目できるな」
揺れる葉から漏れる光。そして、その光によって出来る闇。荘厳なまでの美しい情景の中、二人はゆっくりと歩いていった。