月下福禄琥珀章

第一幕 竈猫



     残酷なる人間達

     逃げ回りて
     逃げ回れども

     傷より溢れる赤き水は

     まるで、命のやうで



    「この世はなんて美しきならむ」

     誰が
     いつ
     呟ゐしや


     人間なんて嫌ひ

     ーーーそう、思ひたれど。





     第一幕 竈猫





     都の中心から少し南、この広い平屋の屋敷は喧噪から離れ、静かな水の流れる音と、小鳥のさえずりの中にあった。木々は青く茂り、真夏の陽射しを遮っている。ほのかに香る若葉の匂いを吸い込めば、身体中が清らかになるような心地さえした。

    「銀」

     自分の名を呼ばれ、少年は振り向いた。
     背格好は八歳程。少し伸びた黒髪を無造作に縛っていて、勢いよく振り向いた為にちょろりと尻尾のように揺れた。呼んだのは彼の主人で、同時にこの屋敷の主でもある男。名を土御門靖伴《つちみかどやすとも》という。

    「はい、先生」

     少年は答えると、主の方へと寄った。彼の主は背が高く、今年二十四を数える歳となった。初めて主を見た時、彼はまだ少年と言える年齢だった。元服して間もなくの少年が、月下に佇むのを見て、綺麗な鬼が自分を迎えに来たのだと思ったのを思いだす。容姿端麗にして、女人のように綺麗な男。常に不機嫌そうな、気難しそうな表情は、その美麗な顔立ちによって異様な迫力を持っている。

    「……何か、表にいるな」

     少年のいるのは、この神殿作りの屋敷の中庭だった。特にやる事もなく、草むしりでもやるかと出て来て少し経った頃だった。主は屋敷の縁側、その更に少し奥の方から彼を呼んだので、主の姿は少し陰っていたが、屋敷の表の方角をみて何かを思案しているようだ。

    「あ…確かに。オレ、見てきましょうか」

     気を澄まして見れば、確かに屋敷の敷地の前をうろうろとするような、見知らぬ気配がある事がわかった。彼の主に比べれば遥かに気取る能力は劣るけれど、それでもかすかな違いは感じとる事ができる。
     彼の申し出に、主は少し考えてから手を上げた。明確ではないけれど、それだけで「否」とわかる。彼と主は、言葉少なに意思を通していた。

    「では、お気をつけて〜」

     少年は、そろそろ昼飯の支度をしなければと屋敷の中へと入った。鼻歌まじりに台所へ向かう少年は、いつもと同じように強い光が大地を照らすこの日から、彼の静かな生活が一変するなどとは思いもしなかった。








     不思議な気配は、何も今日に始まった事ではない。ここ数日、屋敷の周辺に同じ気配がうろちょろと、まるで中を伺うようにしていたことはわかっている。人間のような、けれど違う動物でもあるかのような不思議な気配が、今日は何故か表の門から去る気配がない。
     靖伴はカラリと下駄を引っかけ、表の門より外へ出た。

     靖伴の屋敷には、敷地内と敷地外の境界に見えない結界が貼ってある。都が変わるそのまた前の時代より、代々陰陽師としての任に就いてきたお家柄、雑鬼などでは容易く敷地に入ることはおろか、中を垣間みる事もできないほど、強力な結界が貼られていた。

    「わぁっ! えっきゃぁ!」

     そんな訳で、誰も見えていなかったはずの門から唐突に現れた靖伴の姿に驚くことは、それほど珍しいことでもない。が。

     驚きすぎて後ろに飛び退いたソレは、勢いの余り丁度後ろにあった垣根に突っ込み、枝が折れるような音と葉のすれる音とともに盛大にこけてしまっていた。

    「……」

     近くでよく見てみると、髪も瞳も他の者達とは異なる明るい色をしている。なんとも小汚い、一応は娘のようだ。着ているものも素末だが、草履も履かず、女だというのに町娘のように髪を伸ばしてもいない。
     靖伴は無言で、折れた枝や葉が絡まって起き上がれないらしいその娘の腕を取って立たせてやった。

    「あ、ありがとうございます…」

     娘がはだけてしまった着物を直すのを待ち、顔をあげた所で靖伴は切り出した。

    「…で、うちに何か用が?」
    「えっいやっあの…!」

     盛大に狼狽える娘に、愛想、という言葉を親の腹に忘れてきてしまったかのように、不機嫌そうな顔を崩さない靖伴はそれでも辛抱強く娘の言葉を待っていた。

    「あのっあのあの! 貴方は…陰陽師の、土御門靖伴先生…ですか?」

     やっと出て来た言葉は靖伴の問いに沿うものではなかったが、「いかにも」と答えると、顔を綻ばせ靖伴の手を取った。

    「では先生! 私をお嫁さんにしてください!」

     これには、普段その不機嫌な表情を崩す事のない靖伴も「はぁ?」という気持ちを、その眉を少しだけ上につり上げる事で表した。常人ならばいつもの不機嫌な顔だけで一緒にいるのを遠慮したくなるようなこの男に、このように睨みつけられればその場で命乞いを始めそうな程凄みを益している。が、この娘は全くといって意に介さずなおもずずいと靖伴ににじり寄っていた。

     ”嫁にして”など、普通の感覚ではこのように娘から頼むようなものでもない。力の強い武士の家ともなれば、嫁が婿の家に入ることも最近では増えているが、基本的には伝統的な通い婚が主流である。何よりも、結婚は家同士の契約である。本人達で決めることは無いに等しいのが常だった。

     「結婚して」だとか、「家事得意ですから!」など、ひたすらに自分を売り込む娘を前に、靖伴は別の事に興味を示していた。この娘の瞳。珍しい琥珀色をしているが、それがどこか見覚えがあるのだ。思いだせず黙って考えていた靖伴に、娘がとうとうしびれを切らした。

    「…もうっ聞いてますか!?」

     考えにふけっていた靖伴は、もう少しで記憶の縁からそれを引き出せそうな所で引き戻されてしまった。再び目が合ったのを機に、もう少し近くで見ようと頬に手をかけ顔を引き寄せる。

    「……えっ!? ちょ、靖伴様!? そっそんなまだ早いですーーー!」

     さっきまで散々迫っていた娘が、今度は靖伴を突き飛ばし、その反動でまたもひっくり返ってしまった。ささっと自分で起き上がった娘の顔は、着物から出ている肌すべてがゆでダコのように真っ赤に染まっている。

    「思いだした」
    「……え?」

     何か、人間ではない気配がしているとは思っていた。見た目は完全にヒトであるが、纏っている気配がヒトのそれとは全く違う。加えてこの琥珀の瞳。この瞳は確かに見た事のあるものだ。

    「お前、日和か」
    「!」

     これほどまでに、驚いた事があっただろうか。娘ー日和《ひより》ーはその名を呼ばれ、心臓が止まる思いがしていた。呼吸を忘れるとは、まさにこの事。それほどまでに、彼がその名を口にするのは驚くべき事だった。

    「……何故、……」

     それ以外は、声にならなかった。日和の声にならぬ言葉に応えるように、靖伴はほんの少しだけ、よくよく見なければわからない程に本当にほんの少しだけ、表情を緩めた。

    「生きてたんだな。良かった」

     日和は、この言葉にいよいよ声を失った。瞼が熱くなり、視界がみるみる滲んで行く。頬を流れ落ちた雫は、さんさんと降り注ぐ日光に照らされ乾いた大地にぽとりと落ちると、すぐに消えてしまった。

    「(この方の…お役に立ちたい…!)」

     ただ泣き続ける日和に、何か声をかけるでもなく。靖伴はそこに共に立っていた。



     彼女が泣き止んだのは半刻程経ってから。日がほんの少し傾き、影が伸び始めていた。昼飯を作り終えた銀は、靖伴が屋敷を出てから随分経っても戻らないことを心配し、表へと探しにきた。そして、門前での光景をみて首を傾げる。

    「先生、なんすか? この女」
    「猫だ」
    「はぁ?」

     銀は日和と靖伴を交互に見てから、「わけがわからない」と首を降った。

    「それはそうと、飯出来ましたよ」

     銀の言葉とともに、ぐぅきゅるるるるるるぅぅぅぅぅ、という音が三人の間に響いた。盛大に主張する腹の虫は、当然靖伴ではない。また銀でもない。二人に見られ、恥ずかしさに再び顔を真っ赤に染めた日和のものだ。

    「……俺はいい。こいつに飯をやってくれ」
    「はぁ。わかりました…」

     靖伴はそのまま二人を連れ屋敷の敷地内へ入った。そしてふと思いだしたように振り向き。

    「それから、飯が済んだら風呂に入れてやれ。屋敷内が汚れる」

     ーーー斯くして、靖伴と銀の静かな生活は、幕を閉じたのだった。