第八幕 従神
カランと、乾いた音が響く。水桶に溜めていた水がまた一つ底をつき、水滴すら残っていない。随分前に汲んだ、嫌な匂いのする水はまだ少しだけあるけれど、燦々と照りつける太陽は、容赦なく身体中から水分を奪って行くようで。
『かあちゃん』
弟や妹の声がする。かあちゃん、といくら呼んでも、返事が来ることはない。もう、永遠にないのだと、説明する気にもなれなかった。自分たちに、なけなしの食料を与えてくれた母は、今朝、苦しい生を手放した。相変わらず照る、太陽を恨んだ。母と自分たちを置いて、どこかへ行ってしまった父を恨んだ。その父も、もしかしたらもう、黄泉へと昇ってしまっているのかもしれないが。
こんなに苦しい生なら、生まれなければ良かった。じりじりと、呼吸を止めた肉を腐らせて行く夏の暑さは、都ごと召す気だろうか。
「銀」
「ーーーっ!? ……ぁ…」
着物が濡れる程にびっしょりと汗をかき、銀は目覚めた。床の横に佇んでいたのは靖伴だった。起き上がり姿勢を正そうとする銀を靖伴は手で制した。そして紙を取り出して何かを呟くと、ふっとその紙を吹いた。吹かれた紙は、ひらひらと蝶のように舞いながら、襖の隙間を抜けて部屋から出て行った。
「……魘されていたな」
「……あ、…それで…。すみません」
辺りを見れば、うっすらと昇り始めた太陽が朝霧に透けている。まだ早い時間だというのに、昼中の蒸し暑さを予感させる晴天が、銀をうんざりさせた。従神となった銀は、生身であった頃よりも寒さや暑さを感じにくくなった。もしくは、今感じているものは、自分の感覚ではないのかもしれないと、彼は思っていた。魘されているからと、わざわざ離れからやってきた主は、今は何をするでもなく、外を眺めていた。涼し気な横顔は、彼が初めて会ったときよりも大人びて、しかし変わらない静けさを持っている。
「若様。いらっしゃいますか」
静かな衣擦れの音とともに、凛が姿を見せる。靖伴に一度礼をした凛は、その手に持っていた水を銀へと差し出した。
「……どうも」
主の指示なのだろう。銀は器からゆっくりと水を飲んだ。冷えた水は、敷地内の井戸から引き上げたものだ。靖伴の術式によって清められた水は、従神となった身体に染み渡っていく。都から離れたこの辺りでは、未だ干ばつの気配などない。
「……降りませんわね」
凛の鈴の音のような声が、よく響く。靖伴は、あぁ、と相づちをうち、立ち上がった。
「あの、先生」
銀は立ち上がった靖伴を見上げた。既に背を向けていた靖伴が立ち止まった。
「ありがとうございました」
靖伴はちらりと銀を見ると、何も言わずに行ってしまった。残された銀と、凛が顔を見合わせる。元々が紙である凛にも、あまり暑さ寒さは関係ないのだろうか。凛はいつものように世の女性達の鏡であるかのように美しく口角を少しだけ上げて微笑むと、銀の頭をさらりと撫でて出て行った。もう大人と言っていい年齢であるのに、八歳程で止まったこの容姿のせいで、どうしても子供扱いを受ける。まぁ、そうでなくとも、何代も前の当主の式神であった凛から見ればひよっこであることは紛れもないが。
四角祭から数日が経ち、靖伴の周りは騒がしくなっていた。一向に降る気配もない雨に、幕府の陰陽師への不信感は高まっている。幕府の陰陽師筆頭の前任、土御門有親の息子である靖伴の噂が広まり、祈祷依頼が増えているのだ。立ち込める障気は、病とともに人々の生気を削いでいく。それを祓うだけでも、陰気な都の空気が少しましになるのだとか。
「あ、お仕事終わったみたいだよ。もう半刻も経たずに帰ってくるんじゃない」
この所本当に、靖伴の周りは騒がしい。いつも屋敷にあった靖伴の姿が、ここ数日は夜も遅くなってからでないと見られない。銀は残っているが、凛はお仕事の手伝いで、靖伴に同行している。日和は行っても役に立てないので、最近は一緒に行かないことにしているが、それはそれで、とても寂しく感じていた。
そんな日和を見かねて、銀はよく声をかけてくれた。だいたいは、靖伴に関わる情報をくれる。
「ほんと!? ……あ、ねぇ、銀?」
夜も深まり、夕飯を終えてからずっと玄関で靖伴の帰りを待っていた日和に、銀が呆れたように教えてくれた。銀がそういうのであれば、そうなのだろう。銀はよく、離れているはずの靖伴がどこにいるかを教えてくれた。場所だけではなく、その時のおおまかな感情までを分っているようだ。そのことを、日和はずっと不思議に思っていた。
「何?」
「あの、銀て、なんでそんなに先生のこと、わかるの?」
あぁ、と銀がいう。その表情が、ほんの少しだけ陰った気がした。
「俺が、先生の従神だからだよ」
「んー…。従神って、式神とは違うの?」
思えば、式神についても、従神と呼ばれるものについても、何も知らない。どちらも『陰陽師が使役する者達である』と教わった気もするが、具体的にどういうものであるのかは教えられなかった。
「うーん…。大きく違うのは、式神っていうのはさ」
「うん」
銀は頭をかきながら、面倒臭そうに息を吐きながらも、玄関に座る日和の側に胡座をかいた。
「紙からできてるだろ」
「え!?」
紙から? では、凛も紙で出来ているのだろうか。そんな事はちっとも想像していなかった日和は、盛大に驚いた。
「え、そこから?」
「え、え、えぇ? だって、人間に見えるよ」
「まぁ、だろうね」
どこからどう見ても、人間だ。妖猫である自分が言えたことではないが、あれが人間ではないとなると、町に出ても会うひと会うひとを疑ってかかる必要がありそうだ。
「式神ってのはさ、陰陽師が使役して、術の行使やその補助をさせるための紙なんだ。特別な方法で作られた特別な紙に、術式を描いたものは、主となる陰陽師の性質を真似た式神になる」
「……主を真似た…?」
言っている意味は理解できているはずであるが、例が銀の言う事と異なる。つまり、主である靖伴と、凛の性質は似ているということだろうか。全く似ている点が見つからないのは、自分の勘違いなのだろうか。日和の頭から疑問符が出ていることに気づき、銀はハハッと笑った。
「似るのは、作り主の陰陽師。式神は作るの大変だけど、一度作るとその紙が消滅しない限り半永久的に使役することができる。おまけに、ちゃんと管理さえされていればだけど、そこらの紙よりも相当丈夫なもので出来ているから、焼かれても雨に濡れてもすぐに駄目になることってないんだ。だから代々、優秀な式神は受け継がれることが多いんだ」
なるほど、と日和は頭の中で構図を描いた。つまり、凛を作ったひとは凛のような陰陽師で、それを代々受け継いで今は靖伴が主として凛のことを使役しているらしい。もしかしたら、まだ会ったことはないが、そのように受け継がれている式神が他にもいるのかもしれない。
「で、俺みたいな従神だけど」
「うんうん」
「従神ってのは、元は生き物なんだ」
「……。……えぇ!?」
式神の話を聞いて、従神もそのような紙ではない何かが人間のように見えるものなのかとは思っていた。けれど、元が生物とはどういうことなのか。日和の頭には、またも多くの疑問符が浮かんだ。
「だから、俺、元は人間なんだ」
「………今も、人間に見えるよ?」
そこで、また銀は少し寂しそうに笑った。従神になった日、全てを承知して、そうなることを自ら願った。けれど、現実は想像よりも上をいくものだ。楽しいことも、沢山あった。この世に残ってよかったと、心から思うときもあることは確かだが。ふとした時に襲う孤独。成長しない自分を置いて、うつろう世間に戸惑う心をどうすればいい。いつしか、銀は屋敷の外へは出られなくなった。幼い自分を知る人が、今も変わらぬ自分を見てどう思うだろう。
「……銀?」
「あ、悪い。まぁ、普通は猫とか鳥とかに術を施して従神にして、使役するんだ。従神になると、感覚の一部が主に依存してるらしくてさ。それでわかるんだよ。先生がどう感じてるかとか。少しね」
日和の最初の質問にきっちり答えると、銀は座ったままの日和を置いて立ち上がった。去ろうとする銀に、日和が声をかけるよりも早く、戸が開いた。
「お帰りなさい、先生。日和、おやすみ」
「あ、うん。おやすみなさい、銀。ありがとう」
日和のお礼の言葉に、銀は手をあげただけで返した。
「……こんな所で座り込んで…。立ちなさい」
「あ、…あ、先生、おかえりなさい!」
「……あぁ。ただいま」
靖伴が日和をかかえて立たせると、靖伴はやれやれと冠を日和に預けて奥へと向かう。預けられた冠を宝物のように大事にもって歩く姿を横目に見てくすりと笑った。
「…? 先生、今、笑いました?」
「…いや」
「?」
「猫みたいだなと思って」
「……。…私、人間に見えてないですか? ……もとは、猫ですけど…」
「いや、人間に見える」
「?」
靖伴が帰ってきて、自分にかまってくれる嬉しさに、日和は先ほどの話など半分どこかへ吹き飛んでしまっていた。ましてや銀が一瞬だけ見せた、寂し気な笑顔など。