月下福禄琥珀章

第参幕 小春日和



     今からおよそ、十年と少し前、暦ではもう冬に入ったものの、春のような暖かさの残る日だった。靖伴は十四歳を迎える年となり、あと丁度七日で成人の儀である元服を控えていた。
     陰陽道の教えは、父有親《ありちか》から受け継いだ。天賦の才が問われる陰陽道で、靖伴――当時は幼名、春明《はるあきら》であったが――のその才は始めから、大器の片鱗を見せた。厳しい父の期待通り、先祖返りとも囁かれるような多大な力で、この頃ではもう、できないことはないと思うほど、自分の術に自信を持つようになっていた。

     その日、春のような暖かい陽射しの中、午前中の勉強を終えた靖伴は散歩をしようと外へでた。いつものように長い石段を上り、その上には小さな社が立っている。この場所から見渡す景色が好きで、靖伴はよくそこに来ていた。樹齢百年はあるかと思うほど大きな木の下、うとうとと昼寝をしてしまった靖伴は、肌寒い風が頬を撫でた事で眠りから覚めた。辺りは夜の帳が降り始め、うっすらと姿を現した月が見えた。帰らなければと立ち上がった靖伴は、目のはしに何かが映ったのを見逃さなかった。社の後ろへと回り込んだ何かを追って、靖伴も社の裏を覗き込んだ。すると、まだらに赤く染まった小さな猫が、そこにうずくまっていた。
     
     大きな鳥や他の動物に襲われたのかと傷を見ていたが、刃物で切られたような、鋭い切り傷が複数目だっていた。人間に襲われたのだと、靖伴はすぐに理解した。

    『おいで。手当をしよう』

     うずくまって震える子猫は、もう逃げる力もないのか、ぐったりと靖伴の腕に身を任せた。連れ帰る途中、何度か意識を戻しては、靖伴のことを引っ掻いたり暴れ回ってはいたが、そのうちに力尽きたように暴れなくなってしまった。家に帰ると、すぐに傷に薬を塗り、暖かい所に寝かせてやった。次の日、明るい所で見てみると、傷の具合はよく無い事がわかった。しかも、傷の切れ口の周りに、何か赤い文字が書かれていることに気がついた。
     その文字を見て、靖伴は腹の中を抉られるような思いをした。紛れもなく、陰陽師の使う術文字である。それほど大きくない傷にも関わらず、血がなかなか止まらないのはこの為だったのだ。どこの誰がやったことかわからないが、このように命で遊ぶために使われるためにあるものではない。靖伴は自分の指を切り、その血で今ある術文字の上に更なる文字を書いた。呪詛ならば、この呪詛返しによって術者のもとへ返るだろう。それで少しでも、罪を思い知れば良いのだ。靖伴は呪詛が解けて少しだけ穏やかになった子猫の寝顔に、頑張って傷を治せと願ったのだった。



     血を流しすぎていたのだろう、子猫はそれから二日、生死の狭間をさまよっていた。息をするのも苦しいのか、あえぐ子猫を、靖伴は見ていられなかった。丸二日たとうとしていたその夜、彼は猫の腹に書かれた血の文字の上に、陣を書き入れた。この世の理、陰と陽。つまり、月の力と太陽の力をこの猫が受けられるように。この術式は、本来は式神の力を強くするために用いるものであった。生身の生物に対して使っていいものか、彼はわからなかった。けれど、このまま放っておけばこの猫は死んでしまうだろう。人間の勝手で失われようとしている命を、少年であった靖伴は見逃すことができなかった。そして、自分にはそれを救う力が、あるのではと過信していた。




    「その猫は、次の日の朝、目を覚ました」

     相変わらず、不思議な静けさがあたりを包んでいた。庭に作られた池に流れ込む水音だけが、静かな夜を彩っていた。





     子猫は目覚めると、その綺麗な琥珀色の瞳で靖伴を見上げた。人間である靖伴に、恐怖したのだろう。伸ばした手に爪をたて、まだふらつく小さな体でめいっぱい大きく見せようと、臨戦態勢をとっていた。

    『ごめん。驚かせたな。ここにご飯置くから、ちゃんと食べろよ』

     靖伴はその場から少し離れた所に胡座をかき、柱にもたれて書を読み始めた。子猫はしばらく靖伴の動きを警戒していたが、子猫のことを気にする様子もないので、警戒を解き、目の前に置かれた牛乳にそろりと近づいた。それでもまだ口をつけずに靖伴の様子を伺う子猫は、しばらくして空腹に負けたのか、ぴちゃぴちゃと牛乳を飲み始めた。夢中になって飲んでいる子猫を、横目に見た靖伴はその元気な様子にほっと息をついた。高価な牛の乳は栄養があり、町の間では薬にもなると言われている。これで傷の治りも少しは早くなるだろう。

     冬も間近のこの頃、時折吹く風は冷たく、靖伴の頬を撫でていた。けれど天を見上げると輝く太陽は、燦々と彼と、満腹ですっかり気を許した小さな猫を照らしていた。靖伴は風を遮るように、子猫を自分の胡座の中に座らせた。まだ傷は完全に治っていないが、術が何か奏したのだろう、これからは徐々によくなっていくだろう。縁側の柱に凭れ、眠くなるような初冬の木漏れ日。靖伴はふと、呟いた。

    『いい日和だ…』

     子猫はぴくりと耳を動かした。丸くなって眠っていた子猫が顔をあげる。それに気づいた靖伴が、首の後ろを指で撫でた。

    『このような冬の始めの温かな日を、小春日和というんだ』

     子猫は靖伴の手に頬を擦り寄せ、ごろごろと喉を鳴らした。

    『はは、気に入ったのか』

     子猫は気持ち良さそうに琥珀色の目を細く伸ばし、なーと鳴いた。

    『なら、お前は日和と呼ぼうか』

     子猫はころりと胡座の中で腹を見せるように寝転ぶと、撫でていた手をぺろぺろと舐めた。まるで名前をつけられたことに、喜んでいるようなその仕草に、靖伴は微笑んだ。

     それから数日、子猫はぐんぐん回復していった。靖伴は午前、午後と勉強しなければならなかったのだが、その他の時間は常に子猫と共に過ごした。血と泥で薄汚れていたその子猫は、暴れるのを抑えて洗ってやると、とても綺麗な真っ白な猫になった。
     そして出会いの日から七日目、その日は靖伴の元服の日で、冬の始めにふさわしく、冷たい風が吹く日であった。子供の衣から大人の衣へと、子供の髪型から大人の髪型へと靖伴の装いが変わったその日、子猫は姿を消してしまった。






     世界は、音を取り戻した。月下に佇む靖伴を取り囲み、合奏でも始めたかのように。蝉の声が何重にも聞こえる庭を眺めながら、靖伴は自嘲気味に口角を引き上げた。

    「恩、なんかじゃないんだ」

     凛は側に控えながら、靖伴の表情は見えなかった。けれど、その言葉一つ一つに、深い後悔の念を感じた。

    「ただの猫だった日和が、人に化けて現れた。…陰陽の力を、俺が授けてしまった…」

     凛は、そんな事があるのだろうかと考えていた。ただの猫が、人に成る術など、陰陽道には存在しないだろうし、聞いたこともない。凛は何代も前の土御門当主によって作られた式神のため、何代も土御門の、そしてそこに携わる陰陽師を見て来たが、そのような術を持つ者など見た事はなかった。

    「(ーーーけれど、現実に起きている…)」

     数百年、陰陽師を見て来た凛だが、この目の前で佇む主ほどに、その力に秀でたものは見た事が無かった。しかし若くして、このような都から離れた場所で静かに暮らしている。彼に野心の欠片でもあれば、都に名のしれた陰陽師である父、有親《ありちか》のように、幕府お抱えの陰陽師筆頭になれたであろうに。

     ただの紙に、術文字を描き、それをこのような人形《ひとがた》を取る式神にしてしまう陰陽師。式神の姿は術による幻であるけれど、そのような事が可能ならば、あるいはそれさえも、可能になってしまうのかもしれない。力が強いとは、なんと難儀なことであろうか。

    「ともあれ、一度拾ってしまったものは仕方がありませんわね。そのおつもりなのでしょう?」

     常に難しい顔をしているために、近寄りがたい印象をもたれることの多い主であるが、凛は知っていた。靖伴は情に厚く、責任感が人一倍強いということ。銀のことも含め、本当に難儀なことであると、凛は人知れずため息をつく。

    「あぁ。……任せられるか」

     ちらりと視線が合う。靖伴は月明かりを背負い、ただそこにいるだけで静かな力が流れて来るようだった。この世の理《ことわり》に愛された、当代無類の陰陽師。凛はそこに静かに首部を垂れた。

    「若様の意のままに」

     凛はひっそりと微笑んだ。優しさ故に過去を悔やむ、その心こそ宝。荒んだ時代に齎《もたら》される、奇跡なのだと信じて。