月下福禄琥珀章

第七幕 四角祭




     跡取りを亡くした橘の屋敷はどんよりとして、それこそ陰気をため込んでしまいそうな空気であった。葬儀は厳かに行われ、靖伴と日和、凛も線香をあげるために参列していた。呪詛が払われ、すっかり元気になった貴子も、突然の兄の死を酷く痛んでいた。

    「これは、靖伴様…」

     当主、政彦は靖伴の一行に気づくと、深く頭をさげた。

    「ご心傷、お察しします」

     靖伴が言うと、政彦が顔をあげた。疲労も色濃いが、その胸の内はいかばかりか。

    「靖伴様には良い薬師様も紹介いただき、お心遣いも痛み入ります」

     穏やかに話をする靖伴と政彦を見ていた日和は、その言葉にはっとした。自分の管轄外、と言った靖伴が、「管轄内」である薬師を紹介していたなどと、思ってもみなかった。彼は、見限ったわけではなかったのだ。日和は一人、気持ちが温かくなるのを感じた。





     暮れも近づき、せっかく都まで来たのだからと、都菓子でも買って帰ろうかと通りを歩いているところだった。前から数人の陰陽師と思われる男どもが、何やらぴりぴりした雰囲気でこちらへ向かって歩いてくる。彼らが通り過ぎたところで靖伴に尋ねると、幕府のお抱え陰陽師であると言う。

    「どうしてあんなに大勢で歩いているんでしょう」

     日和が言うと、静かに後ろを歩いていた凛が答えた。

    「間もなく、四角祭≪しかくさい≫を執り行うようですわね」
    「しかくさい…」

     頭の上に疑問符の浮かぶ日和に見かねた靖伴が口を開く。

    「そこに畑があるだろう」
    「え、…はい。あります」

     都の中にはあまり大きなものは見ないが、それでも自分たちの食べ物を育てる為に、と小さな畑を持つものは多くいる。靖伴が指差した畑には、まだらにあせた色をした茎のようなものが残り、土の色も乾いた黄土色をしているものだった。

    「ここのところ、ただでさえ少なかった雨が一向に降らず、世間では間もなく大飢饉が訪れると囁かれている」

     今は、それほど多くないとはいえ、去年までの蓄えでなんとか保てているものの、この年にまったく収穫がなければ、いずれは必ずそうなるだろう。

    「都でさえ、この真夏の暑さに井戸の水が底をつき、流行り病がはびこり始めている」

     日和は病と聞くと、やはり幸彦を思い出してしまう。ちょうど出会ったときの靖伴と同じくらいの年頃なのに、苦しさに顔を歪め、息も絶え絶えに助けを求めていた。今も自分の手に残る、子供とは思えないほど強い力。病に犯され、高熱に浮かされたその小さな身体は、確かに”生きたい”と叫んでいたのに。どうにもならぬことなど、いくらでもある。いくらでも、どこにでもあるもの。ーーーそう、幸彦に限らず、今も都を蝕み続けている。

    「それを鎮め、邪気を祓い、天に平安を乞う。それが四角祭だ」

     都の要所、四カ所に陣を貼り、都全体を大きな陣とするため、その要所それぞれに陰陽師を配置しなければならない。少なくとも陰陽師が四人は必要であるため、個人では行われることはまずない。朝廷、または幕府の名の下に行われる大きな祭祀さいしである。

    「そうなんですか…先生は、やらないんですか?」

     日和の純粋な問いに、靖伴は答えなかった。首をかしげていると、後ろで凛がくすくすと笑っている。

    「日和様、若様は幕府に使えていらっしゃらないのですわ」

     くすくすと笑う凛に、日和はその意味がわからなかったが、凛や銀から教えられた「常識」に、仕事というものがあったことを思いだした。普通の陰陽師であれば幕府や朝廷という組織に使え、そこでお金を貰うのだ。それを思えば、日和が靖伴の屋敷に来て十数日経つが、靖伴が幕府、朝廷に出かける所を見た事がない。

    「すごい陰陽師なのに…みんな知らないんでしょうか」

     呟くように口にした日和の言葉に、凛はことさらににっこりと笑った。

    「本当ですわね」

     幕府の陰陽師筆頭を努めた土御門有親≪ありちか≫の一人息子ともなれば、幕府のみならず朝廷の耳にも入っていることだろう。けれど幕府からの誘いも、朝廷からの誘いにも、靖伴は首を横に振る。あまり目立った祭祀を行ってはいないけれど、靖伴は時折都へ出て、呪詛払いや祈祷を行っている。幕府にも朝廷にも相手にされず、困り果てている人々は大勢いるのだ。噂を聞きつけ、靖伴の屋敷へも時々客がやってくる。”役所勤め”がほとほと嫌いらしい主に、凛はまたもくすくすと笑った。靖伴には呆れたように睨まれ、日和には不思議な顔で見られてしまったけれど、二人ともににっこりと微笑んで見せた。

    「(それでも、このまま飢饉になるようでは、若様は何かなさるのでしょうけれど)」

     先ほど見た幕府の陰陽師の中には、この度筆頭を任ぜられた渋川時伊≪しぶかわときよし≫の姿も見えた。年は三十ばかりで、若くして大出世を成したとその噂は一時都を騒がせていた。左目に海の外よりの買い付け品である細工の美しい眼帯をつけ、鋭い眼光は靖伴とはまた別の、背筋が寒くなるような厳しさをたたえている。渋川は何度か幕府よりの命で雨乞いの儀をしているはずであるが、一向に雨が降らない為に早くも地位を危ぶめているとか。

    「あっ甘い香りがします!」

     凛の思考は、日和の明るい声に遮られた。目指していた飴屋に到着したのである。靖伴もその店の入り口に立ってはいるが、なんともその光景がちぐはぐで微笑ましい。こんなにも不機嫌な顔で飴屋に佇むのは、この靖伴くらいだろう。

    「凛さんっ! この可愛らしいお菓子はなんですか!?」
    「あら、珍しい。これは糖花ね」

     真っ白で複数の突起を持つ小さな糖花は、窓から差し込む光によってまるで宝石のように見えた。外来のものが出回ることは、都でも珍しい。値は可愛くはないが。

    「気に入ったのでしたらそれにしましょう」

     凛は靖伴から預かっている財布から支払うと、小瓶に入れられたそれを日和に持たせてやった。帰り道、光を乱反射させる糖花を、日和は飽きる事無く眺め続けた。屋敷の前では、銀が門周りの掃除をしていた。

    「銀っこれっこれ見て!」
    「あ、先生、おかえりなさ…って、ななな何!?」

     一行に気づいた銀は、顔をあげた所で日和に飛びつかれて仰け反ってしまった。

    「これっお菓子なのっ! 綺麗でしょー!」

     銀の方が年上であるが、成長が子供のままで止まっているためか、日和は銀には友達のように接していた。それを銀は、どこかこそばゆく感じる。呆れるほどに目を輝かせている日和の手にしているものを見ると、そこには小瓶一杯に小さな星が詰まっていた。

    「糖花っていうの!」

     銀は押し倒す勢いの日和から距離を取ると、その瓶をよくよく見た。

    「へぇ…懐かしい」
    「え? 銀は知ってるの?」
    「まぁ…一回だけ食べた事あるだけだけど」
    「すごい! 美味しい!?」

     銀は興奮して質問攻めの日和を適当に流し、屋敷へ入っていく靖伴を見た。さりげなく見たつもりでいたのに、銀の視線に靖伴が気づく。靖伴はいつもの表情を少しだけ和らげて銀を見たあと、すぐに行ってしまった。けれど、銀にはそれで十分だった。興奮しきりの日和を凛が宥め、銀と共に屋敷に入る。傾いた太陽は、彼らを優しく染めていた。




     同じ橙色をした夕日をその身に受け、渋川は一人長く続く廊下を歩いていた。狩衣≪かりぎぬ≫を翻し、冠かんに丁寧にしまい入れていた髪も怒りにか乱れている。ずんずんと音がするのではというほどに、その足取りに迫力があった。

    『ーーー次の四角祭が成功しなければ、朝廷が動くと言いおっての…。幕府の威信をかけて、次こそは頼むぞ』

     それでなくとも中の悪い幕府と朝廷である。これで下手をして、朝廷がしゃしゃり出てくるような事態になれば、折角苦労して辿り着いた陰陽師筆頭の地位も危ない。
     前任の土御門有親が在任中、その地位は不動とされていた。人望厚く誰よりも仕事に厳しい有親に息子がいると知ったときの絶望たるや、思いだしても背筋が寒くなる程だ。けれど、有親が年を理由に任を辞した時、天は渋川に味方したようだった。土御門と言えば、古くは阿部に繋がる陰陽道の名門である。有親も才溢れる優秀な陰陽師であったことは間違いないが、彼すらも『舌をまく』と宣ったその息子は、陰陽師筆頭の任はおろか、陰陽寮に入ることすら辞したのだ。

    「〜〜〜っくそっ涼しい顔をして…!」

     昼間、目の仇にしていた有親の息子、靖伴とすれ違った。有親在任中にも見かけた女の式神を連れていたから間違いはないだろう。他に、不思議な女を連れていたが。

    「……待てよ…あの女」

     昼間はこれから上官との面会を控えていたためにそれどころではなかったが、よくよく考えてみれば、本当に不思議な女を連れていた。式神ということは無いだろう。そもそも式神とは、自分の姿をそのまま、あるいは一部を映してしまうもの。歴代の陰陽師で、あのように奇抜な風貌となれば知らずにいられるはずもない。女は布を間深くかぶり、隠してはいたが、髪色がずいぶんと風変りであった。

    「渋川様! 祭祀の準備は整っております。号令頂ければ、いつなりと」
    「…あぁ」

     考えを邪魔した部下に舌打ちし、渋川は外へと出た。沈みかけの太陽は痛い程に彼へ赤い光を投げつけている。飽きるほどに見た太陽が、しばらく登らなければ、このうだる様な気温もどうにかなるだろうに。渋川は忌々し気に太陽を睨みつけ、自分の持ち場へと向かった。







    「あ、日和、見てみろよ」

     銀に促され、日和は窓から外を見た。いつもは真っ暗で、星々や月しか見えないはずの空に、何やら地上から光が伸びている。

    「あれ、何?」

     夕食の済んだ屋敷で、片付けを手伝っている所だった。皿を洗うのをしばし休め、その不思議な光景を見入る。

    「祭祀が始まったな」

     銀の言葉に、昼間に見た男たちを思いだした。幕府お抱えの陰陽師が、緊迫した表情でどこかに向かっていた。空へと昇る光の筋は、四本見える。

    「四角祭って言ってたよ」
    「あぁ、なるほど」

     少し遠いけれど、確かに都の中心を囲むように四本の筋が伸びているようだった。

    「何回目かな」
    「え? だって、ずっと雨が降ってないんでしょ?」

     銀は純粋に見返す日和に、呆れたように笑った。

    「雨乞いをすれば雨が降るなら、飢饉なんて起こらないだろ」
    「あ……なるほど…」

     凛が言うには、十年程前にも酷い飢饉があったのだったか。その頃にも陰陽師はいただろうに、それでも起こるということは雨乞いとは絶対に雨を降らせるものではないようだ。

    「……雨、降るかな」
    「さぁ?」

     銀も日和も、天へと伸びる光の筋を眺めていた。数日は様子を見られるが、何回目かのこの祭祀が失敗となればいよいよ幕府は立ち場がない。続く日照りに作物は育たず、間もなく飢饉は訪れるだろう。長くその状態が続けば、大飢饉となって多くの犠牲者が出る。

    「……飢饉が起こったって、偉い奴らは食い物に困らないんだ」

     ぼそりと呟いた銀の言葉は、酷く沈んでいた。食べるものもなく、衰弱して行く身体に追い打ちをかけるように蔓延≪はびこ≫る病。幕僚や官僚と呼ばれる身分の者や、そのもっと上の者達は、飢饉となった所ですぐにどうにかなってしまうことはまずない。いつでも、真っ先に犠牲になるのは、今日を生きるのも苦労している者達だ。

    「雨、降るといいねぇ」

     銀の胸中など知らぬ日和が言った言葉の、なんと呑気なこと。暗くなりかけた思考をも振り払って、ただ呆れだけが残る。

    「さっさと終わらそうぜ」
    「あ、うん!」

     片付けを再開した銀と日和がその仕事を終え、床についたその後も、祭祀は続いていた。




     ーーー夜中続いた四角祭は、明けとともに終わりを告げた。